修羅場な話:灰色の指先に、春の光は届かない

灰色の指先に、春の光は届かない

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朝靄が窓ガラスを曇らせていた。
小さなアパートの一室、静寂の中に微かなタバコの匂いが漂う。
私は、まだ湿り気の残る寝具に身を沈め、娘の寝息を数えるともなく聞いていた。
鼓動のように、規則正しい呼吸。
その静けさが、時に私の不安を増幅させる。

 結婚した時、夫は言った。
「子どもが生まれたら、タバコはやめるよ」—あの約束は、春風のように頼りなかった。
夫の実家も、私の実家も、そこに住むすべての人々が煙に包まれて生きていた。
だから私たちは、煙のない場所で新しい家族を始めようとした。
けれど、現実は違った。
出産後も夫はベランダで、仕事場で、時には私に隠れるようにして、タバコを吸い続けていた。
私は、帰る場所をなくし、一人きりで育児に向き合うしかなかった。

 ある晩、世界の色彩がすべて消えたような恐怖が、私を襲った。

 娘は、私のすぐ隣で小さく寝息を立てていた。
そのはずだった。
ふと、呼吸の音が途絶えたことに気づく。
時が止まる。
私は名を呼び、何度も、何度も。
慌てて服を脱がせ、小さな胸を叩く。
何も反応がない。
涙が頬を伝い、嗚咽が喉を締めつける。
絶望の淵で、私は震える手で心臓マッサージを始めた。

 その瞬間、娘は息を吹き返し、大きな泣き声を上げた。
私は娘を抱きしめ、彼女の体温を確かめながら、壊れた堰のように泣き続けた。
窓の外では朝が始まっていた。
病院の白い光の中で、医師は「異常は見つかりません」と告げた。
「乳幼児突然死症候群かもしれませんね」とも。

 私は知っていた。
ミルク、うつぶせ寝、そしてタバコ——乳幼児突然死の影に寄り添うものたち。
私は夫のタバコを止められなかった。
罪悪感が、冷たい鉛のように心を沈める。

 春の夕暮れ、夫はいつものようにベランダで煙草をくゆらせていた。
私はその背中に静かに声をかけた。

「お願い、タバコをやめて」

 夫は振り返り、わずかに眉をひそめた。
「俺はやめるつもりないから」

 その言葉は、私の中の何かを決壊させた。
私は低く、静かに、けれど確かに言った。

「次にタバコを吸ったら、私の指を落とす。
あんたのじゃなくて、私の指。
倉庫に電動ノコギリ、あるよね」

 夫は怒りを露わにした。
「脅す気か?」

 私は目を逸らさず、娘のことを語った。
あの夜の恐怖、胸の奥で今も燃え残る焦燥を、静かに、しかし必死に。

「なりふり構わない。
娘を守れるなら、私は何だってする」

 しばしの沈黙。
ベランダの外では、風が洗濯物を揺らしていた。
夫はやがて、煙草を灰皿に押し付けると、無言で部屋に戻った。

 それから、夫は煙草を吸わなくなった。
けれど、時折彼は私を見てこう言った。

「お前、ほんとキチだな」

 その言葉を聞くたび、私は胸の奥で苦笑した。
もし、娘を失っていたら。
私は、きっと本物の「キチ」になっていただろう。

「私、キチですから。
あなたのワガママは聞こえません。
自分でやってください」

 そんなふうに冗談めかして返すことが、いつしか私たちの日常になった。
夫との喧嘩は減り、私は心の中の嵐を、少しずつ手懐けていった。

 春の光が、レースのカーテン越しに部屋を満たす。
娘は私の鼻を小さな指でつつき、その笑顔が、世界のすべてを赦してくれる気がした。

 タバコの匂いは、もうここにはない。
読了
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