朝靄が町を薄衣のように包み込む六月の朝、私は小さな工務店の制服に袖を通し、トラックのエンジンを鳴らした。
あれから幾度、同じような朝を迎えたことだろう。
しかし、あの日の出来事だけは、いまだ胸の奥で澱のように沈殿している。
目的地は、寺院の経営する古びた幼稚園だった。
園舎の横を抜け、本堂の裏手にひっそりと構えるバス車庫。
コンクリートの遊具が片隅に置かれた広場には、朝露が光の粒となって地面を染めている。
バスが通るためだろう、広場には余計なものが一切なかった。
どこか寂れた空気が漂っている。
八時半過ぎ、私は車庫の脇にトラックを停め、剥がれたトタン屋根の修理にとりかかった。
工具箱の蓋を開け、手に取った金槌の質量が掌にしっくりと馴染む。
冷たい金属の感触だけが、現実を繋ぎ止めていた。
足場を軒下に組み上げる。
ふと背後に気配を感じて振り返ると、遊具の周りに十人ほどの園児たちが集まっているのが見えた。
彼らは小動物の群れのように、好奇と警戒をないまぜにした視線をこちらに投げていた。
幼稚園や小学校の現場ではよくある光景だ。
子供たちは、異物のように現れた作業員に興味津々で群がるものだと、私は気にも留めず作業に戻った。
だが、そのときだった。
「らぁっきぃーーー、らぁっきぃーーー」
粘っこく、舌足らずな声が、朝の澄んだ空気を震わせて届いてきた。
誰か一人の声ではない。
十人ほどの園児が、まるで合唱のように、声を合わせていた。
「らぁっきぃーーー、らぁっきぃーーー」
私は思わず足場の上で手を止めた。
「ラッキー」――どこかで聞いた名前だ。
来る途中、園の庭の隅に犬小屋があったのを思い出す。
あれは、あの犬を呼んでいるのだろうか。
だが、どうにも腑に落ちない。
彼らの視線は犬小屋ではなく、私の背中の方角に向いているからだ。
再び振り返る。
すると、奇妙なことに、声がぴたりと止んだ。
園児たちはまるで、最初から何事もなかったかのように、遊具の上で思い思いの方向を眺めている。
私の方を見ている者は、一人としていない。
私は首を傾げながら、作業に戻る。
すると、また始まる。
「らぁっきぃーーー、らぁっきぃーーー」
振り返る。
止まる。
その繰り返しが、十秒おきに続いた。
私はしだいに、不可解な違和感に包まれていく。
彼らは、私の視線を感じ取ると同時に、声を止める。
だが、誰も私と目を合わせようとはしない。
まるで、私の存在そのものを否定するかのように。
工事音の合間に響く、園児たちの間延びした「ラッキー」という声。
どこか機械的で、感情のない反復。
私は、背中に冷たいものが這い上がってくるのを感じた。
まるで、見てはいけないものを振り返ったような、そんな薄ら寒さだった。
やがて、始業のチャイムが園舎の奥から鳴り響いた。
園児たちは一斉に遊具から降り、何事もなかったかのように、園舎へと吸い込まれていった。
朝の喧騒が嘘のように消え、広場には静寂だけが残った。
私はしばらく、手の中の金槌を見つめていた。
あのとき、あの子供たちは、いったい何をしていたのだろう。
彼らの声が、今も耳の奥で波紋のように揺れている。
「らぁっきぃーーー、らぁっきぃーーー」と。
あれはただの戯れだったのか。
それとも、幼きものたちだけが知る、名もなき儀式だったのか。
朝靄の中、私は答えのない問いを胸にしまい、再び屋根の上へと戻った。
不思議な話:幼き声の迷宮――ある幼稚園での奇妙な朝
幼き声の迷宮――ある幼稚園での奇妙な朝
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