不思議な話:山間の晩夏、失われた祭囃子と紅錦の小袋に潜む影——五感で追う老人の記憶

山間の晩夏、失われた祭囃子と紅錦の小袋に潜む影——五感で追う老人の記憶

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■ 第一章 山の夜、遠ざかる祭囃子と狐の声

晩夏の名残を感じる夕暮れ、老人は古びた帆布のテントの中に身を横たえていた。
山の奥深く、標高千メートルを越える場所。
僅かに湿った空気が肌を撫で、外界と隔絶されたような静寂が辺りを満たしていた。
ランタンの橙色の灯りがテントの天井に淡い影を描き、かすかな草の匂いと土の湿った臭いが混ざり合って、どこか懐かしくも不安を誘う。

夜の帳がすっかり下り、森は静まり返っていた。
だが、唐突に、どこからともなく微かな音が耳を打った。
遠くで鳴る笛や太鼓、鉦の音。
それは確かに祭囃子だった。
最初は風の悪戯かと、ふと耳を澄ませる。
音は時に強く、また時に消え入りそうに、山肌を這うようにしてやってくる。
老人は寝袋の中で身じろぎし、不思議な違和感を覚えつつも、「風の向きで遠い村の音が運ばれてきたのだろう」と自分に言い聞かせた。
だが、どこか心の奥底では説明のつかないざわめきがあった。

ふと、祭囃子に混じって、甲高い、どこか人間離れした鳴き声が重なった。
狐のようでもあり、女の笑い声のようでもある。
その声が、夜気の中で伸び縮みしながら耳に絡みつく。
老人は毛布をぎゅっと握りしめ、胸の鼓動が普段よりわずかに速くなるのを感じた。
しかし、疲れが勝り、やがて意識は夢と現実の狭間へと沈み込んでいった。

■ 第二章 朝の騒乱と、町を包む不穏な空気

朝、テントの外に出ると、山の空気はひんやりと澄み、光線が木々の間に縞模様を描いていた。
下山道を辿り、町へと降り立つ。
町は普段と違う、不釣り合いな騒がしさに包まれていた。
人々の声が重なり、何かが起きたのだとすぐに分かった。
広場には数人の警官と町の男たちが集まり、焦燥と不安が混じった表情で言葉を交わしていた。

「おい、ちょっと」と、顔なじみの駐在員が老人を呼び止めた。
制服の胸元には汗がにじみ、目の下には疲労の濃い影が落ちている。
老人は一瞬、咄嗟に何か悪いことをしたわけでもないのに、胸の奥で息苦しさを覚えた。

「昨夜、山で何か変わったことはありませんでしたか?」
声のトーンは柔らかいが、どこか切羽詰まった響きがあった。
老人は一瞬躊躇いながらも、「いや、特に……」と答えた。
しかし、脳裏には昨夜の祭囃子と、あの奇妙な鳴き声が蘇る。
町の人々の話し声が耳に入る。
「行方不明だ」「誘拐か」「家出じゃないか」「神隠しか?」——そんな単語が渦を巻く。

老人は汗ばむ掌をズボンで拭い、胸の奥に小さな石を抱え込むような感覚を覚えながら、誰にも昨夜のことを話さぬまま、駅へと足早に向かった。
汽車の時間が迫っていた。
汽車のホームに立つと、町を包む重苦しい空気が、背中に貼りついたままだった。

■ 第三章 汽車の中、女と紅錦の小袋——現実と虚構の狭間

汽車が山間の町を離れ、緑の谷を縫うように進む。
窓辺の席に落ち着いた老人は、疲れと安堵が入り混じったまま、うとうとと微睡みに沈んでいった。
車内は静かで、時折、線路の継ぎ目を車輪が叩く単調な響きだけが耳を打つ。
鉄と油のにおい、車窓から流れ込む夏草の匂いが微かに混ざり、眠気を誘った。

どのくらい経ったろうか。
突然、肩口にひんやりとした気配を感じた。
「もし……」と、囁くような声。
夢うつつの意識が現実に引き戻される。
振り向くと、そこにひとりの女性が立っていた。
深紅と金糸の刺繍が鮮やかな着物——まるで昔話から抜け出したような、非現実的な華やかさ。
彼女は袖で口元を恥ずかしそうに隠し、伏し目がちに立っている。
薄い桃色の頬、白磁のような肌、しかしその目だけが、どこか鋭利に吊り上がり、光を跳ね返していた。

「これを……私の家族にお渡ししていただけますか?」

女性はそう言って、掌に収まる小さな赤い錦の袋を差し出した。
細かな刺繍が光を受けてきらめき、触れるとわずかに温かい。
老人は寝惚けていたこともあり、反射的に袋を受け取ってしまった。
だが、ふと女の顔をしっかりと見た瞬間、喉の奥に冷たい石が落ちるような感覚が走る。
彼女の目は、異様に細く、つり上がり、まるで人間ではない何かのように感じられた。

「困ります、なぜ私が……」
老人は袋を返そうと手を伸ばす。
しかし女は一歩、すっと身をかわす。
袖の中の口元から、わずかに赤い唇が覗き、「お願いいたします」と再度囁く。
その声はどこか、山の夜に聞いた狐の鳴き声に似ていた。

「いや、困ります」
「お願いいたします」

押し問答の間、車内の空気が急に冷たく感じられ、周囲の風景が遠ざかる。
老人の手は汗ばんで震え、心臓は不規則に跳ねる。
次の瞬間、女の姿は煙のようにかき消え、そこにはただ、小袋だけが残った。
窓の外を見ると、汽車は高い鉄橋の上を渡っていた。
下には青黒い川が流れ、川面に薄靄が立ちこめている。
「川は渡れないのだな」——老人の脳裏に、何かの昔話の一節がよぎった。

戸惑いと恐怖が入り混じる中、意を決して小袋の口を開く。
中から、ざらり、ざらりと硬質な音。
白く小さなものがいくつも転がり出る——それは人間の歯だった。
血の気が引き、口の中が急速に乾き、胃の奥が冷たく締めつけられる。
老人は袋を捨てようと何度も思ったが、どうしても手放せなかった。
ついには町の駐在所宛に、何も書かずに郵送するという形で処分するしかなかった。

■ 第四章 数年後の再訪、町に残る歯と神隠しの記憶

それから幾年か経った。
老人は再び山を訪れる機会を得た。
季節は再び夏、町の空気はどこか変わらぬ重さを湛えていた。
あの事件のことが、心にくすぶる火種のように残っていた。
彼は何気なく、町の駐在所に立ち寄った。
かつて自分を呼び止めた駐在員は、数本白髪が増えたものの、記憶の中と変わらぬ顔で立っていた。

「覚えてますよ。
あれは嫌な事件でした」
駐在員は、当時を思い出すように、眉間に深い皺を寄せた。
「犯人から、被害者の歯が送られてきましてね……残酷でしょう」

その言葉を聞いた瞬間、老人の背中に冷たい汗が流れた。
自分が恐ろしい事件の一端に、否応なく巻き込まれていたことを思い知る。
まるで自分が、あの不可解な事件の犯人であるかのような、得体の知れぬ圧迫感が体を包み込む。
喉の奥がひどく渇き、言葉が出てこなかった。

「でも……」駐在員はふと、何かを思い出したような表情で続けた。
「家族にそれを見せたら、妙に納得したんですよね。
捜査も突然、町の人たちが協力しなくなって……町全体が、何か重苦しい空気に包まれてしまった。
あれから、あの話は誰も口にしたがらなくなりました」

老人は、町を包む得体の知れぬ沈黙を、皮膚の上に感じ取った。
まるで何か見えないものが、町の人々の言葉や記憶を縛り付けているかのようだった。

最後に、駐在員は低く呟いた。
「送られてきた歯には、上下の犬歯だけが欠けていたんです」

その言葉が、老人の心に深い影を落とした。
あの夜の祭囃子、狐のような声、赤い錦の小袋、そして町を包む終わらぬ沈黙……全てがひとつの糸で繋がっているような気がした。
老人は、町を離れる汽車の中で、窓の外に広がる山々を見つめながら、未だ終わらぬ物語の余韻を、重く胸に感じていた。
読了
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