不思議な話:夜の祭囃子と紅の小袋――山間の町に消えたものたち

夜の祭囃子と紅の小袋――山間の町に消えたものたち

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夜の帳が静かに降りてきた。
テントの薄い布越しに、山の冷たい空気がじんわりと染み込んでくる。
私は寝袋に身を滑りこませ、瞼を閉じた。
だが、その静寂を破るように、どこからか微かに笛や太鼓の音が流れてきた。

 祭囃子だ――。

 遠い記憶の底に沈んでいた、懐かしさと不安がないまぜになった感情が、胸の奥でそっと身じろぎする。
だが、ここは人里離れた山の中。
風が音を運んできたのかもしれない。
私はそう自分に言い聞かせ、やがてまどろみの底へと沈んでいった。

 *

 朝。
山の端から薄桃色の日差しが顔を覗かせ、私はゆっくりとテントを畳んだ。
山を下り、町へと戻ると、そこには普段ののどかな空気とは異なる、張り詰めた緊張が漂っていた。
人々が小声で何事かを話し合い、警察官が慌ただしく往来している。

 一人の駐在が私を呼び止めた。
「ちょっと、お話を伺いたいのですが」
 彼の声は低く、どこか探るような響きを帯びていた。

 私は昨夜のことを思い返しながら、素直に答える。
どうやら、町の若い娘が突然姿を消したらしい。
「誘拐だ」「家出じゃないか」と誰かがささやく。
だが、老人の一人がぽつりと「神隠しだ」と呟くのが耳に残った。

 その言葉が、昨夜の祭囃子と、どこかで混じっていた狐のような鳴き声を思い出させる。
だが、私はそのことを誰にも話さず、駅へと向かった。
汽車に乗り込み、町を後にする。

 *

 列車がゆっくりと動き出し、私は窓の外に流れる田畑をぼんやりと眺めていた。
眠りの淵に沈みかけたとき、不意に耳元で柔らかな声が囁いた。

 「……もし」
 はっとして顔を上げると、隣の通路に、鮮やかな紅の着物をまとった女性が立っていた。
白い襟元が夜明けの霧のように淡く、袖で口元を隠した仕草には、どこか恥じらいが滲んでいる。

 「これを、私の家族にお渡しいただけますか?」
 女はそう言い、赤い錦の小袋を差し出した。
私は夢と現の狭間に取り残されたような心地で、ついその袋を受け取ってしまった。

 ふと彼女の顔に目をやる。
――瞳が、妙に吊り上がっている。
狐火のような光が宿っている。

 ぞっと背筋が冷たくなった。
私は慌てて袋を返そうとした。
「いや、困ります」
 「お願いいたします」女は一歩身を引き、袖の奥から切実な視線を投げかける。

 「俺には……」
 「お願い申し上げます」
 言葉の応酬は、どこか夢の中のやりとりのように空虚で、現実味を持たなかった。
気づけば、女の姿は煙のように消えていた。

 窓の外では、列車が長い鉄橋を渡っていた。
朝靄に包まれた川が、底知れぬ闇をたたえて流れている。
――ああ、川は渡れないのか。
そんな考えが一瞬、頭をよぎった。

 私はおそるおそる小袋を開いた。
中から、じゃらじゃらと音を立てて、人の歯がこぼれ落ちた。

 喉の奥が凍りつく。
どうして――。

 恐怖と嫌悪が入り混じった感情が、胃の底で渦を巻く。
捨てようかと思ったが、どこかそれも憚られた。
結局、私はその小袋を町の駐在所宛に、匿名で郵送することにした。

 *

 数年の月日が流れた。
季節は巡り、桜の花びらが淡く町を彩る頃、私はふたたび山を訪れる機会を得た。

 あの町へも立ち寄り、かつての事件について、それとなく尋ねてみた。

 見覚えのある駐在が、苦い笑みを浮かべて首を振る。

 「覚えていますよ。
あれは本当に嫌な事件でした。
犯人から、被害者の歯が送られてきましてね……残酷でしょう」
 私の背中を冷たい汗が伝う。
知らず知らずのうちに、自分がその事件の一部になってしまっていたのだ。

 気まずさを隠し、そそくさと立ち去ろうとしたとき、駐在がふと、思い出したように言った。

 「でも、不思議なことがありましてね。
家族にその歯を見せたら、なぜか妙に納得したような顔をされまして。
町の人たちも、急に捜査に非協力的になったんですよ……。
あのときの、町中に漂っていた異様な空気、今でも忘れられません」
 そして彼は、ぽつりと付け加える。

 「そういえば、送られてきた歯には、上下の犬歯だけが欠けていたんですよ」

 春の風が、町の路地をそっと吹き抜けた。
私は何も言わず、静かにその町を後にした。
あの紅い小袋の重みと、消えた祭囃子の余韻だけを、心の奥底に残して。
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