朝靄が町を薄く包み込む春の夜明け、私はふと、胸の奥に小さな棘が疼くのを感じていた。
それは二十年以上前の、あの空気の重い家の記憶だ。
私の家族には、常に一つの影が差していた。
兄――四つ年上の彼は、幼いころから荒々しく、時に人の心の奥深くへと冷たい指を滑り込ませるような、陰険さを持ち合わせていた。
家族の輪の中で、彼だけがいつも異物のように浮いていた。
機嫌が良いときだけ妙に愛想よく振る舞い、少しでも不快を感じれば、すぐに棘を剥き出しにして周囲を傷つける。
私も、両親も、兄の気まぐれな暴力や理不尽な嫌がらせに、長い間耐えてきた。
けれど、どんなに身内であっても、無神経な棘はやがて心の奥に澱となる。
ただ距離を置くことで自分を守るしかなかった。
*
あれは、私が大学生になったばかりの春のことだった。
兄は、幾度も大学入試に失敗し、アルバイトも長続きしなかった。
父が生活態度を厳しく叱れば、兄はふてくされて家を飛び出し、数日後には何事もなかった顔で戻ってくる――そんなことの繰り返しだった。
私たちの家は小さな商店を営んでいた。
木造二階建ての、どこか温もりと陰りが同居する家。
その二階で、兄は昼間からごろごろと横たわっていた。
外面を気にする両親は、長男の存在が店の評判に影を落とすことを恐れ、ついに市内の古びたアパートへの転居を提案した。
週末、不動産屋をいくつも巡り、私も手伝って、ようやく決まったのは二階の角部屋――木造の、どこか時間の止まったような佇まいだった。
風呂とトイレ付きの小さな2K。
兄は言葉少なに荷物をまとめ、静かに新しい部屋へと去っていった。
その夜、私は窓辺で夜風を感じながら、心の底にわずかな安堵を覚えていた。
不思議なことに、両親もまた、同じ思いでいたに違いない。
「これで、少しは心が休まるだろう」
誰も口にしなかったが、沈黙の中には確かな解放感が満ちていた。
*
だが、安堵は長くは続かなかった。
ひと月ほど経ったある晩、兄が唐突に実家へ戻ってきた。
「……あの部屋は、何かおかしい。
引っ越したい」
兄の声は珍しく沈んでいた。
両親は呆れたような顔を隠そうともしなかった。
「夜になると、胸の上に何かがのしかかってくるんだ。
……それに、引っ越してから彼女も来なくなった」
兄は霊感など持っていない、むしろ神経が図太いはずだった。
それなのに、部屋についてこんなことを言い出すとは。
父は「馬鹿なことを言うな」と一蹴し、兄を追い返した。
それでも兄は何度も電話をかけてきては、同じ訴えを繰り返した。
やがて、両親の受話器を取る手にも、冷たい拒絶の色が宿るようになっていった。
*
秋の気配が濃くなり始めた頃、兄は再び実家の戸を叩いた。
「昨日、ゴミを出しに外に出たら、隣の人と初めて会ったんだ」
兄はぽつりと語り始めた。
隣人は十年以上あのアパートに住んでいるというが、早朝に家を出るため、顔を合わせる機会がなかったらしい。
「俺の部屋、なんか変なんですよ」
兄の言葉に、隣人は苦笑いを浮かべ、こう答えたという。
「そりゃそうだよ。
あんたの部屋、人が亡くなった部屋だもん」
兄は半信半疑だった。
だが、隣人は続けた。
「だから家賃も半分なんだろ?」
実際、両親が支払っていた家賃は、他の部屋の半額だった。
昔のことだ。
事故物件の告知義務など、誰も気に留めていなかった。
家族会議の末、両親は再び兄の引越しを認めた。
*
時が流れた。
私は大学を卒業し、遠い町で新しい家族と暮らすようになった。
知らない土地での生活は、思いのほか孤独だった。
コーヒーの苦味とともに、時折ふと、あの実家の空気を思い出した。
二十年が過ぎたある日、事故物件情報サイトが世間を賑わせているのを、テレビ越しにぼんやりと眺めていた。
――あのとき兄が話していたのは、本当だったのだろうか?
パソコンを開き、故郷の地図を探す。
都会の炎のマークはあまりにも多くて目がくらむが、地方都市ならば、目的の場所を見つけるのは難しくない。
兄がかつて住んでいた部屋には、赤い印が灯っていた。
「家庭内暴力を繰り返す息子を父親が殺害し、その後に自殺した」
――そんな、あまりにも痛ましい過去が刻まれていた。
*
あの部屋に住んでいたころ、兄はこんなことも口にした。
「……あの部屋にいると、彼女はすぐに帰るし、空気が重いし、最悪だ。
でも、Aが来ると空気が変わるんだ」
Aは兄の数少ない友人だった。
私も一度だけ会ったことがある。
物静かで、穏やかな雰囲気の青年だった。
失礼な話だが、あまりにも普通すぎて、私はその時、兄の言葉を深く考えなかった。
今思えば、Aは家族仲が良く、温かい空気を纏っていた。
――もしかすると、兄はあのアパートに残る何者かの神経を逆撫でしていたのかもしれない。
一方で、Aは静かな癒しをもたらす存在だったのだろう。
「相性が大事」という言葉があるが、それは人間同士だけでなく、人と場所、人と“何か”との関係にも当てはまるのだろうか――そんな風に思わずにはいられなかった。
*
余談になるが、兄はその後、心を病み、幾度も病院への出入りを繰り返していると聞く。
あの曰く付きの部屋との因果関係は、今となっては誰にも分からない。
ただ、薄闇の中で静かに鳴る心の警鐘だけが、今も私の胸の奥でひっそりと響いている。
怖い話:「薄闇に棲む声――兄と“あの部屋”の記憶」
「薄闇に棲む声――兄と“あの部屋”の記憶」
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