窓の外に沈みかけた夕陽が、じっとりとした橙色の光で町全体を包み込んでいる。
空は、どこまでも濃く、重たい群青色へと滲み始めていた。
そんな夏の夕暮れ、俺は二階の部屋に横たわっていた。
開け放った窓から入り込む空気は、熱気を含んで肌にまとわりつき、ベッドシーツは汗で湿っている。
蝉の断続的な鳴き声が、どこか遠くで耳障りなほど規則正しく続いていた。
目を閉じていると、外の世界が遠ざかっていく。
だが、うっすらとした眠りの淵に沈み込んだその時、唐突に耳を刺す電子音が部屋の空気を切り裂いた。
―ピンポ〜ン、ピンポ〜ン
インターホンの甲高い音は、乾いた金属がぶつかり合うような違和感を伴って、部屋中に響き渡る。
心臓が小さく跳ね、軽く息を吸い込む。
誰かが訪れたようだ。
しかし、両親は旅行で不在、家には俺しかいない。
(面倒くせえな……)
単なる勧誘か、近所の人か。
だが、階下に降りて対応するのが億劫で、俺はシーツを握りしめて無視を決め込んだ。
すると、沈黙を破るように、再び同じ音が繰り返される。
―ピンポ〜ン、ピンポ〜ン
―ピンポ〜ン、ピンポ〜ン
その音には、明らかに「無視されている」ことへの苛立ちが滲んでいるように感じられる。
インターホンのメロディーが、部屋の壁や天井を振動させ、俺の体にまで重くのしかかってくる。
額に浮かび始めた汗が、こめかみを伝って枕へと吸い込まれていった。
(誰だよ、こんな時間に……)
好奇心がやや勝り、俺は静かにベッドから体を起こした。
床板が、夏の湿気でわずかに軋む。
そっと二階の窓辺に歩み寄り、厚手のカーテンの隙間から下を覗き込む。
薄闇に沈み始めた玄関前に、二つの人影がぽつりと浮かんでいた。
ひとりは、40代くらいに見える女性。
白っぽいワンピースが、夕暮れの光をぼんやりと反射している。
隣には、小さな女の子。
彼女もまた同じような白い服に身を包み、頭には麦藁帽子を被っている。
少女の小さな手が母親の裾を握りしめているのが、遠目にも分かった。
二人の表情は、逆光のせいでよく見えない。
だが、どこか現実感の薄いその佇まいに、背中を冷たいものが撫でていく。
(子連れの宗教勧誘か……最近よくいるけど、やれやれだな)
重い気分のまま、俺は階段を下りる決意をする。
足元から床板の冷たさと、湿った空気がじわじわと伝わってくる。
玄関にたどり着き、ドアの向こうから微かに感じる二人の気配に、わずかな緊張が体に走る。
「……はい」
ドアノブを握り、ゆっくりと扉を開ける。
外の空気が一気に流れ込み、むっとするような熱気と、どこか甘ったるい草花の香りが鼻腔をくすぐる。
だが、そこには誰もいなかった。
玄関前には、夕焼けの名残が薄く広がっているだけ。
コンクリートの上には足跡ひとつなく、門扉も閉じたままだ。
耳を澄ませても、足早に去っていく影や、話し声、衣擦れの音さえ聞こえない。
(なんだよ、もう帰ったのか……)
気まずさがこみ上げる。
せっかく出てやったのに、と小さく舌打ちし、再び階段を登る。
二階の部屋に戻ると、さっきまで以上に蒸し暑さが増したようで、シーツが体にまとわりついて離れない。
横になった途端、再びあの音が部屋を貫いてきた。
―ピンポ〜ン、ピンポ〜ン
今度は、心臓がどくんと波打つ。
音はさっきと全く同じトーンで、間断なく鳴り続けている。
(まさか……)
恐る恐る、もう一度窓から玄関を覗き込む。
薄暗がりの中、さきほどの親子が、まるで時間が巻き戻ったかのように、同じ場所に、同じ姿勢で立ち尽くしていた。
白い服が闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。
今度は、明らかに不穏な空気が体を包む。
無意識に拳を握りしめ、息を詰めて階段を駆け下りた。
手すりに触れた掌は、汗で滑りそうになる。
玄関ドアの前に立ち、鼓動が速くなる。
ドア越しに感じる静寂は、何かがそこに「いる」ことを否応なく意識させる。
チャイムの音が、まるで部屋の内部から響いているかのように近く感じられる。
怒りと恐怖がない交ぜになり、勢いよくドアを引いた。
だが、誰もいない。
玄関前は静まり返り、空気は動いていない。
さっきまでのチャイムの音が、幻聴だったかのように消えている。
視線を左右に走らせても、隠れる場所などどこにもない。
家の立地は袋小路にあり、門の外に出ればすぐに見通しのいい道路が広がっている。
(ありえない……)
呆然と立ち尽くしたその時、
―ピンポ〜ン、ピンポ〜ン
今度は、インターホンが俺の真横、まさに手の届く距離で鳴り響いた。
そこには、誰もいない。
ボタンは微かに光っているだけで、押している指も影もない。
鼓動が耳の奥で爆発し、冷や汗が背中を伝う。
喉がカラカラに乾き、呼吸がうまくできなくなる。
俺は無我夢中で家の中に飛び込み、ドアを強く閉め、鍵をかけた。
カーテンを引きちぎるように閉め、布団の中に潜り込む。
外の気配が薄くなっていくにつれ、逆にインターホンの音だけがやけに鮮明に、何度も何度も部屋の中に響き続ける。
その夜、俺は布団の中で震えながら、二度と外を見る勇気を持てなかった。
---
翌朝、湿気を含んだ朝の光がカーテン越しに滲み込んできた。
夢と現実の境目が曖昧なまま、突然ドアをノックする音がした。
「おい、起きなさい。
手紙が来てるわよ。
女の人からみたいよ〜」
母親の妙に楽しげな声が、階下から響いた。
新聞受けに入っていたらしい。
階段を下りると、母はにやにやと悪戯っぽい表情で白い封筒を手渡してきた。
封筒は、何の飾りもなく、差出人の名前すら書かれていない。
だが、手に取った瞬間、どこか冷たく硬質な感触が掌に残る。
(なんでこれで女だって分かるんだよ……)
半信半疑で封を切る。
紙の擦れる音がやけに大きく響く。
中には、一枚の便箋が入っていた。
そこには、丁寧で整った筆跡で、ただ一行だけ、
「なにかがあなたの家へ入ろうとしています」
と記されていた。
その瞬間、昨夜の恐怖が、湿った空気ごと胸の奥に蘇ってきた。
意味の分からぬ不安が、朝の光をも曇らせていく。
俺は、白い封筒を見つめたまま、再び背筋に冷たいものが這い上がってくるのを感じていた。
怖い話:蒸し暑い夏の夕暮れ、繰り返されるインターホンの音と消えた来訪者の謎に包まれる夜
蒸し暑い夏の夕暮れ、繰り返されるインターホンの音と消えた来訪者の謎に包まれる夜
🔬 超詳細 に変換して表示中
読了
スワイプして関連記事へ
0%
記事要約(300文字)
ダミー1にテキストを変換しています...
0%
変換中
コメント