午後の陽が、ガラス越しに柔らかな光を落としていた。
外はまだ春の名残をとどめる風が、花粉と埃とを運んでくる。
私はいつものように、薄いエプロンの裾を整えながらレジ台に立っていた。
ドラッグストアのフロアには、消毒薬の匂いと、どこか懐かしい紙袋の香りが入り混じって漂っていた。
そのときだった。
店内の自動ドアが、ゆっくりとした音を立てて開いた。
ふと顔を上げると、五十代くらいの男性が足早に近づいてきた。
灰色のコートは季節外れに重く、顔にはどこか切なさと照れの交じった影が浮かんでいる。
「すみません、あの……股間が、とてもかゆいんだけど」
彼は声を潜め、まるで誰かに聞かれることを恐れるように私へ囁く。
「ムヒか、何かよく効く塗り薬、ないかな?」
一瞬、言葉に詰まった。
資格も知識も乏しい私に、彼の切実な悩みにこたえる術はなかった。
どう応じるべきか、レジのボタンに触れた指先がわずかに震えた。
――無力感が、氷のように胸元を冷やしていく。
「少々お待ちいただけますか」
私は努めて平静を装い、店長を呼びに行った。
事務所の引き戸をそっと開けると、店長は帳簿に視線を落としていた。
その後ろ姿には、どこか頼もしさと親しみやすさが同居している。
事情を耳打ちすると、店長は静かに頷き、男性を手招きした。
「どうぞ、こちらへ」
彼らは小さな事務所へと消えていった。
戸が閉じられ、外の世界と切り離される。
その瞬間、私はふと、二人の間に流れる沈黙の重みを想像した。
客はきっと、日常の羞恥と不安の狭間に立っている。
店長は、そんな心の綻びにそっと寄り添うのだろうか。
しばしの静寂ののち、事務所の扉越しに、店長の低い声が聞こえてきた。
「これなら、○○の塗り薬ですね。
僕もこの間、同じような状態でかゆくなったんですが、○○の塗り薬はよく効きましたよ」
どこか親しげで、同じ悩みを共有する者だけが持つ温度。
「ムヒだと、ちょっと違いますね。
あまりお風呂でこすらない方がいいですよ」
その言葉は、聞こうと思わなくても耳に届いた。
思わず、レジの横にいたパートの先輩と私は顔を見合わせ、そっと笑いを噛み殺した。
――こんなにも人に寄り添える人がいるのだ。
店長は、親身な登録販売士として評判だった。
年上の客たちから、日々相談が絶えないというのも、今ならよくわかる。
私は、夕暮れに染まりゆく店内で、静かにそのことを噛みしめていた。
外では、夕陽が街路樹の影を長く引き伸ばしていた。
人の優しさも、困惑も、どこか滑稽で、どこか愛おしい。
ドラッグストアの片隅で交わされた、ささやかな秘密の会話は、今日もきっと誰かの心を温めている――そんな気がした。
仕事・学校の話:静かな午後、ドラッグストアの片隅で――ある塗り薬をめぐる小さな物語
静かな午後、ドラッグストアの片隅で――ある塗り薬をめぐる小さな物語
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