あの日のことは、今でも鮮明に思い出せる。
春の終わり、小学校の新しい教室には、まだ木の匂いがほんのりと漂っていた。
窓から差し込む朝の光はやわらかく、机の上で跳ねる埃を黄金色に染めていた。
ランドセルの革のきしみ、廊下を駆ける子どもたちの足音、遠くで先生が呼びかける声。
そのすべてが、僕にとってはまだ新鮮で、どこか非現実的な光景だった。
そんな教室の隅、窓際の席に座っていた彼女は、陽だまりの中でノートに何かを書き込んでいた。
僕の心臓は、理由もなく速く打ち始める。
手のひらはじんわり汗ばんで、喉が少し乾いた。
教室の空気は、春の湿気を含みながらも清々しく、けれど僕の体温だけがやけに高いように思えた。
気づけば、幼い僕はその彼女のもとへと歩み寄っていた。
靴底が床を擦る音が、やけに大きく響く。
彼女が顔を上げ、まっすぐな瞳でこちらを見る。
その瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。
何を言うべきか、どんな言葉を選べばいいのか、まだ小さな自分にはうまく整理できなかった。
ただ、胸の奥から込み上げてくる衝動に突き動かされるまま、僕は彼女に向かって言った。
「けっこん、しよう。
」
その言葉が、どんな響きで教室に放たれたのか、今となっては定かではない。
ただ、彼女の目が丸くなり、やがて唇の端がぴくりと上がったのは覚えている。
クラスメイトたちの視線がこちらに集まり、小さなざわめきが広がった。
誰かがくすくすと笑い出し、次第にその笑いは教室全体に伝播していった。
その瞬間の自分の感覚は、今振り返っても複雑だ。
顔が熱くなり、耳鳴りがした。
身体の芯が痺れるような恥ずかしさと、なぜか誇らしいような、得体の知れない高揚。
彼女は、驚きと照れと、そしてちょっとした優越感が混ざったような表情で、僕を見つめていた。
あれから、時間は容赦なく流れていった。
小学校の六年間、彼女は何かにつけて、友達の輪の中でこう言った。
「あいつ、私にプロポーズしたんだよ。
ほんとだよ? ぷぷぷ。
」
その笑い声は、廊下の白い壁に反響し、昼休みの校庭のざわめきに紛れ、行事のたびに僕の耳に届いた。
教室の窓の外で揺れる桜の花びら、夏の午後の蝉時雨、秋の澄んだ空気――どんな季節も、その言葉を聞くたびに僕の胸は微かに締めつけられた。
屈辱とも、懐かしさとも違う、名づけようのない感情が身体の奥に残り続けた。
やがて中学校に上がっても、笑い話は終わらなかった。
制服の襟元を正しながら廊下ですれ違うたび、たまに彼女が目配せし、友人たちの間でくすりと笑う。
「あの子、またプロポーズの子だよ」と、噂は形を変えて僕の周囲を巡る。
高校に進んでも、それは変わらなかった。
思春期特有の湿った空気の中で、過去の幼い言葉が妙に浮き上がり、僕の存在を規定し続けた。
そして今、日が沈みかけた家の食卓。
湯気の立つ味噌汁の香り、家族の笑い声、箸と茶碗の触れ合う音――夕食の和やかなひとときにも、あのエピソードはしばしば話題にのぼる。
誰かがふと「そういえばさ」とあの日を語り出すと、僕は苦笑いしながら箸を止める。
家族の温かな視線の中、僕自身もどこかで、その記憶を懐かしみ、微笑んでしまう。
あの教室の陽だまり、幼い声、くすぐったい笑い。
そのすべてが、今でも僕の中で静かに息づいている。
笑える話:「小学一年生の春、教室の陽だまりで──幼きプロポーズが刻んだ記憶の連鎖」
「小学一年生の春、教室の陽だまりで──幼きプロポーズが刻んだ記憶の連鎖」
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