あの朝のことを、今も鮮やかに思い出す。
春の陽射しはまだ幼く、校庭の桜は、まるで新しい季節を迷いながら迎え入れる少女のように、そっと花びらを揺らしていた。
小学一年生の僕は、小さなランドセルを背負い、隣の席の彼女を見つめていた。
よく晴れた窓の向こうには、遠くでカラスの声が響き、教室の空気はチョークの粉と新しいノートの紙の匂いで満ちていた。
彼女の髪が朝陽を受けて、金色にきらめく。
その横顔は、まだ子どもでありながら、不思議と大人びた静けさを湛えていた。
僕の心は、まだ言葉にならない感情でいっぱいだった。
胸の奥で何かがふくらみ、やがてそれは、こぼれるような勇気となって溢れ出した。
言葉は震え、声はかすかに裏返ったけれど、確かにこう言ったのだ。
「――けっこん、しようよ」
彼女は驚いたようにこちらを見つめ、それからすぐに、春風に舞う花びらのような笑い声を上げた。
その音は、教室の片隅に温かく広がり、やがて僕の耳の奥に深く刻み込まれた。
それからだった。
あの日のひと言が、まるで無邪気な呪文のように、僕の小学校生活に寄り添うことになる。
――「あいつ、私にプロポーズしたんだよ、ぷぷぷ」
彼女の声は、休み時間ごとに色を変え、クラスの子どもたちの間で波紋のように広がっていった。
六年間、その言葉は笑い話として語り継がれ、僕の名前とともに、春の花のように咲き続けた。
中学に上がっても、笑いは消えなかった。
新しい制服の袖口から、あのころの幼い記憶がこぼれ落ちそうになるたび、誰かが冗談めかしてあの話題を持ち出す。
高校の教室、夕暮れの帰り道――ふとした瞬間に、あの春の日の声が蘇る。
不思議なものだ。
あの時の自分は、ただ真っ直ぐに、言葉を信じていた。
けれど今では、あの冗談混じりの笑い声に、ほんの少しの優しさと、かすかな寂しさが混じっていることに気づく。
嬉しさと恥ずかしさが、春と冬の境目のように、心の中で溶け合っていく。
大人になった今も、家族で囲む夕食の席で、彼女の名がふいに話題にのぼることがある。
湯気の立つ味噌汁の向こうで、母が笑いながら言う。
「知ってる?この子、昔プロポーズしたのよ」
父は相変わらず大げさに肩をすくめ、妹はこっそり僕の顔色をうかがう。
そのたびに、僕は少しだけうつむき、箸の先で白いご飯をつつく。
過去は、まるで消えないインクのように、日々の暮らしの中に滲んでいる。
それでも、どこか温かい。
春風が窓を鳴らす夜、僕はふと思う。
あの時のプロポーズは、たとえ笑い話のままであったとしても、僕の心にひとつの光を灯してくれていたのだ、と。
笑える話:春風に溶けた約束――幼き日のプロポーズが響く夜
春風に溶けた約束――幼き日のプロポーズが響く夜
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