笑える話:銀行窓口で揺れる記憶と温もり、祖母が選んだ「暗証番号」とは——秋色に染まる一日

銀行窓口で揺れる記憶と温もり、祖母が選んだ「暗証番号」とは——秋色に染まる一日

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午前十時少し過ぎ。
陽が差し込む銀行のロビーには、微かに紙幣と新しい床ワックスの匂いが混じっていた。
窓口のカウンターの上には、ガラス越しに差し込む光が円形の模様を描き、行き交う人々の足音と控えめな話し声が、穏やかな朝の空気にリズムを刻んでいる。
そんな中、ふいに入り口の自動ドアが小さな音を立てて開いた。

彼女——小柄なおばあちゃんが、ゆっくりと歩みを進めてくる。
グレーの毛糸のカーディガン、手編みらしきバッグ、そして古いけれど丁寧にアイロンがけされたスカート。
白髪は後ろでひとつに結ばれ、顔には薄く微笑みが浮かんでいる。
その目尻には、長い年月の喜怒哀楽が刻まれていた。

窓口担当の私は、彼女と目が合うと自然と背筋が伸びる。
彼女は少し緊張した様子で、けれどもどこか落ち着いた足取りでカウンターの前に立った。

「今日は、新しい口座を作りたいんです」

おばあちゃんの声はかすかに震えていた。
けれど、どこか懐かしい、子ども時代に聞いた祖母の声を思い出させるような柔らかさがあった。

申し込み用紙をそっと差し出すと、彼女の手はわずかに震えていた。
その手の甲には、これまでの人生が滲むような細かな皺が刻まれている。

必要事項の説明を進めていくうちに、「では、4桁の暗証番号をお決めください」と静かに告げた。

その瞬間、おばあちゃんの表情が固まった。
眉がほんの少し寄り、視線がカウンターの奥のどこか遠くを彷徨う。
指先が用紙の端を何度も撫でる。

「うーん……」

彼女の口元から漏れるため息が、カウンター越しに私の方まで届く。
ロビーに流れるBGMの音色すら、彼女の迷いに寄り添うように静かになった気がした。

私は、彼女の深い思案を感じ取り、「おばあちゃん、無理しなくていいですよ。
明日でも結構ですから、決まったら教えてくださいね」と、できるだけ温かい声で言葉を添えた。

おばあちゃんは小さく頷き、ほっとしたような息をついた。
その瞳には、少しだけ安心の色が差したようだった。
申し込み用紙をカバンにしまうその動作も、どこか名残惜しいようだった。

彼女が去った後、カウンターの内側に漂う空気はほんの少しだけ軽くなった。
けれど、私は彼女が去り際に一瞬だけ見せた、決意と不安が入り混じるあの複雑な表情を心のどこかで反芻していた。

——そして翌日。

同じ時間、同じ光の中で、また自動ドアが開く。
おばあちゃんは、昨日より少しだけしっかりとした足どりでやって来た。

「すみません、昨日の……」

彼女は申し込み用紙を両手で大事そうに差し出した。
用紙の角は、夜中に何度も手に取ったのだろう、柔らかく丸まっている。

私は静かに受け取り、目を落とした。
そこには、ひと文字ずつ丁寧に、まるで孫に宛てる手紙のような筆跡で——「ど・ん・ぐ・り」と書かれていた。

一瞬、時が止まったようだった。
外の車の音も、ロビーのざわめきも、すべてが遠ざかる。

「どんぐり……」

私は思わず胸に手を当てた。
おばあちゃんは、私の様子を不安げに見守っている。

その夜、おばあちゃんはどんな思いで暗証番号を考えたのだろう。
布団の中で、あるいは湯飲み茶碗を手に、幼い日の秋の記憶や、孫と拾ったどんぐりの思い出を辿りながら、4桁の数字ではなく、心に一番近い「言葉」を探していたのかもしれない。

私は笑いそうになるのを必死にこらえた。
けれど、胸の奥では、何か温かいものが静かに広がっていた。

銀行という、数字と効率に満ちた場所に、ひとときだけ流れ込んだ柔らかな人間らしさ。
その余韻は、私の中に長く残り続けた。
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