午後の陽射しが、窓口のガラス越しに柔らかく差し込んでいた。
銀行のロビーには、微かに紙とインクの匂いが漂い、時折、ドアの開閉にあわせて外の初夏の風がカウンターの内側まで忍び込んでくる。
私はその日も、いつものように背筋を伸ばし、来店客一人ひとりに笑顔を向けていた。
そのとき、控えめな足音がカーペットを踏みしめ、白髪の老婦人がゆっくりと私の前に現れた。
彼女の手には、古びた布のバッグ。
小さな肩には、長い時間の重みが静かに降り積もっているようだった。
「新しい口座を作りたいんですけど……」
小さな声。
その響きは、かすかに震えていた。
私は椅子をすすめ、必要な書類を渡し、ゆっくりとした口調で手続きを説明した。
老婦人は何度も頷きながら、書類に丁寧な文字を連ねていく。
その筆跡は、まるで遠い昔の手紙のように優しかった。
「暗証番号を四桁、お決めいただけますか?」
そう尋ねたとき、老婦人の瞳にほんのわずかな迷いの色が浮かぶのを私は見逃さなかった。
彼女はペンを指先で軽く転がし、深く息を吐いた。
窓の外では、午後の光を浴びてハナミズキが揺れている。
「……ちょっと、すぐには思いつかなくて……」
彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
その姿は、忘れかけた記憶の中の少女のようだった。
「大丈夫ですよ。
ご無理なさらず、明日でも結構ですから、ゆっくりお考えください」
私はそう言って、彼女を見送った。
自動ドアが静かに閉まると、ロビーには再び静寂が戻ってきた。
私はカウンターの上に残された書類の余白を見つめながら、老婦人の小さな背中を思い返していた。
何をそんなに悩んでいるのだろう。
四桁の数字――けれど、人の記憶や想いは、時に数字以上に複雑で、繊細なのかもしれない。
*
翌日。
朝露の匂いが微かに残る時間、老婦人は再び銀行を訪れた。
彼女の歩みは昨日よりもいくらか軽やかで、その手にはしっかりと記入済みの申込用紙が握られていた。
「おはようございます」
私は微笑みかけ、彼女から用紙を受け取る。
用紙の指定された欄には、慎重に、しかし確かな筆致でこう記されていた。
――ど・ん・ぐ・り
一瞬、その意味を測りかねて私はペン先を止めた。
老婦人は、私の表情を不安そうにうかがっている。
「……あの、これが暗証番号、ですか?」
「はい。
昨日、いろいろ考えたんですけどね。
私、昔からどんぐりが好きで……。
忘れにくいと思って」
老婦人の声は、どこか懐かしい旋律のように耳に残った。
私は、微笑みをこらえながら、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
数字に置き換える必要があります、と説明しながらも、昨夜の彼女の思索の長さと、その健気さを思うと、ただ笑うことなどできなかった。
人生の記憶は、時にこうして、小さな「どんぐり」のように、心の奥深くで静かに守られているのだろう。
午後の窓辺に座る老婦人の横顔は、どこか誇らしげで、そして少しだけ寂しそうだった。
私は申込書に目を落とし、小さくつぶやいた。
「きっと、忘れませんね。
その暗証番号……」
笑える話:どんぐりの記憶――銀行窓口に差す午後の陽射しの中で
どんぐりの記憶――銀行窓口に差す午後の陽射しの中で
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