春の訪れは、旧い木造校舎の窓辺を淡く照らしていた。
桜の花びらが風に踊り、教室の片隅へひっそりと滑り込む。
あのときの空気の匂いを、僕はいまだに忘れられない。
雨上がりの土と新しいノートの紙の香りが交じり合い、どこか遠い場所へ連れていかれるような心地だった。
中学一年の春、僕は教室のいちばん後ろの席にいた。
隣には、静かな瞳を持つ少女が座っていた。
彼女の名前を、当時の僕はまだ呼ぶことができなかった。
ただ、彼女の横顔だけが、春の光を受けて淡く輝いていたのを覚えている。
その日、教室の空気は妙に湿っていた。
先生の声が、遠くで鳴く列車の警笛のようにぼんやりと耳を通り過ぎていく。
ふと、隣からかすかな震えが伝わってきた。
僕は視線を落とす。
少女の膝の下、制服のスカートがしっとりと濡れていた。
あたりに気づく者は誰もいない。
一番後ろの端の席は、世界の果てのように孤独で、同時に安全だった。
彼女はただ俯き、指先を強く机に押しつけていた。
その肩が、春嵐のように細かく震えている。
僕の胸の奥で、何かが静かに崩れていく音がした。
言葉も、慰めも、うまく見つけることができない。
ただ、行動だけが先に立った。
僕は静かに席を立った。
椅子のきしむ音が、教室の静寂を裂く。
先生が何か問いかけてきたけれど、僕は返事をしなかった。
廊下へと足を運ぶと、冷たい手すりが掌に現実の重みを伝えてくる。
手洗い場でバケツに水を汲み、再び教室へと戻った。
教室の扉を押し開けると、春の光が床に伸びる。
僕は無言で彼女のそばに立ち、バケツの水をそっとスカートにかけた。
水が床を走り、教室全体をざわめかせる。
少年たちの驚き、少女たちの戸惑い。
春の空気が、一瞬にして凍りついた。
「なにしてるの!」
先生の声が怒りと困惑を帯びて響く。
僕は何も言わなかった。
彼女も、声を発しなかった。
静寂だけが、そこにあった。
その後のことは、今も記憶が断片的だ。
両親が学校に呼ばれ、僕はひたすらに問い詰められた。
「なぜ、そんなことをしたのか」。
けれど、僕は最後まで沈黙を貫いた。
説明などできるはずがなかった。
あのときの自分の行動が、善なのか悪なのか、判断できるほど大人ではなかったから。
夕暮れ、茜色に染まる空の下を、僕は一人で帰った。
家路の途中、遠くから駆けてくる足音が聴こえた。
振り返ると、あの少女がいた。
彼女は僕の家まで追いかけてきて、小さな声で「ありがとう」と言った。
彼女の瞳は、春の陽射しのように温かかった。
それから幾度もの季節が流れた。
桜は咲き、散り、また咲いた。
時間の流れが、二人の距離を少しずつ縮めていった。
今、彼女は、僕の隣にいる。
あの日の水音は、遠い記憶の彼方で、静かに響き続けている。
春の匂いが窓からそっと部屋に忍び込むたび、僕は思い出す――あの日、僕たちが歩き始めた静かな一歩を。
笑える話:水音の彼方、春の影を抱いて
水音の彼方、春の影を抱いて
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