記憶というものは、時に思いがけない鮮明さで過去をよみがえらせる。
とりわけ「不思議な記憶」と呼ぶにふさわしい、あの夏の日の体験は、今でも私の中で色褪せることなく、手触りや空気の匂いまでもを伴って、まざまざと甦る。
小学校五年生――季節は盛夏、八月のうだるような暑さの午後だった。
蝉時雨が空気を満たし、蒸し返すような湿度が全身にまとわりつく。
家の裏手には、町内で一番広い土のグランドがあった。
普段は野球やサッカーをする子供たちの歓声が響くその場所も、昼下がりを過ぎると静けさを取り戻し、空には入道雲がゆっくり流れていた。
自由研究の課題で、僕は虫取り網とノート、それに鉛筆を持ち歩き、グランドの隅々を探し回っていた。
草むらをかき分ける度に、汗が額からこぼれ落ち、手の甲でぬぐう。
土と草の生臭い匂いが鼻を刺激し、指先には湿った土の感触が残る。
時折、遠くで犬が吠える声や、団地の窓から聞こえるテレビの音が、静寂の合間を縫うように響いた。
ふと、視線の先に、普段は気にも留めなかったグランドの最奥――草がぼうぼうに生い茂る一角に、錆び付いた鉄の扉が半ば地面に埋もれるようにして立っているのが見えた。
扉の表面は、長い年月を物語る褪せた赤茶色に覆われ、ところどころ剥がれたペンキがまだら模様を作っていた。
取っ手の周囲には、蜘蛛の巣が張り巡らされ、ドアの隙間からは、じめじめした冷たい空気が微かに漏れているようだった。
胸の奥で、何かがざわめいた。
好奇心と、ほんの少しの恐れが入り混じった感覚。
鉄の取っ手に手をかけると、金属の冷たさが掌に伝わる。
ギィ、と鈍く重い音を立てて扉を引くと、下方へ続く暗い空間が口を開けた。
内側には錆びた鉄製の梯子が、見えない底へと伸びている。
下からは、ひんやりとした空気がゆっくりと這い上がり、肌にまとわりついた汗を一瞬で奪っていく。
「…行ってみたい。
」
そんな衝動に駆られ、僕は一度家へ戻り、懐中電灯を手にした。
掌に収まる銀色の懐中電灯は、何度も家族でキャンプに使った馴染みの道具。
指先が少し震えているのを感じながら、再び扉の前に立つ。
辺りは徐々に日が傾きはじめ、光と影のコントラストが濃くなっていた。
梯子の一段目に足をかけると、鉄の冷たさと滑りやすい感触が足裏から伝わってくる。
慎重に体重を移動させ、ひとつひとつ段を下りる。
懐中電灯の光が、狭い空間を円形に照らし出し、壁の錆びや埃が浮かび上がる。
下へ降り立つと、足元には金網が敷かれており、その下を薄暗い水路が流れていた。
耳を澄ますと、かすかな水音と、どこか遠くから響いてくる謎めいた低い唸り声のような音が混じる。
空気は思ったよりも澄んでいて、下水特有の悪臭は感じられなかった。
ただ、ほんのりと鉄と湿気の匂いが鼻腔を満たす。
床の金網を踏むと、わずかに軋む音がし、僕の鼓動がますます早まる。
息を吸うと、胸の奥がひんやりと冷たくなった。
通路は、左右にまっすぐ伸びている。
僕は恐る恐る、正面へと歩みを進めた。
懐中電灯の灯りが不規則に揺れ、壁に奇妙な影を生み出す。
自分の足音が、空間に反響し、妙な孤独感を覚えた。
20メートルほど進むと、錆びついた鉄格子が行く手を塞いでいた。
格子の先は闇が広がるばかりで、何も見えない。
すぐ脇の壁には、またもや上に続く梯子が設置されていた。
「もっとすごい秘密基地みたいな場所かと思ったのに…」
落胆と、ほんの少しの安堵が入り混じった気持ちで、梯子に手をかけた。
鉄の冷たさが、今度は妙に頼もしく感じられる。
胸の中では、さっきから消えないわずかな不安が、じわじわと膨らんでいた。
歩いた距離からして、地上に出ればグランドの反対側――道路を挟んだ空き地のあたりに出るだろう、と頭の中で計算していた。
梯子を登り切り、頭上の蓋に手をかけてぐっと押し上げる。
地上の光が差し込んできて、一瞬目が眩む。
身体を引き上げると、そこには見知ったはずのグランドが広がっていた。
しかし、何かが違う。
空気は妙に冷たく、太陽はすでに傾き、空は茜色に染まっていた。
蝉の声は収まり、かわりにヒグラシの涼やかな音色が耳に刺さる。
入ったのは昼過ぎだったはずなのに、いつの間にか夕暮れになっている。
胸の奥に、説明のつかない不安が湧き上がる。
身体の内側がじわじわと冷えていく感覚。
辺りの空気は、どこか現実離れした重さを帯びているように感じた。
立ち上がり、グランドを後にしようと歩き出すと、どこか景色が微妙に違うことに気付く。
目に入る家々の輪郭はおぼろげで、色彩が少しだけくすんでいる。
歩き慣れたはずの通りを抜けると、そこにあったはずの古びた雑貨屋は、見たこともない民家にすり替わっていた。
壁の色は深い緑で、窓には奇妙なひし形の模様が刻まれている。
公民館のはずの建物は、見上げるほど大きな病院へと変わっていた。
窓越しに白衣を着た人影が、ゆっくりと歩いているのが見える。
道路の標識も、どこかで見たことのないマーク――三角形の中に、意味不明な動物のシルエットが描かれていた。
「おかしい…ここは本当に僕の知っている町なのか?」
疑念が脳裏をよぎる。
心臓の鼓動が速くなり、手のひらにはじっとりと汗が滲む。
呼吸も浅くなり、喉がカラカラに渇いているのを自覚する。
足早に家へ向かう道すがらも、すれ違う人々の顔つきが、どこか見慣れない、ぼんやりとしたものに見える。
自宅の門にたどり着いた時、さらなる違和感が僕を襲った。
庭には、これまで見たことがないほど巨大なサボテンが、鮮やかな黄色い花を満開に咲かせていた。
駐車場には、未来的な曲線を描いた赤い車が鎮座し、車体の側面には謎めいた記号がペイントされている。
玄関脇には、インターホンの代わりに奇妙なレバーが飛び出していた。
それは、まるで古い工場の機械の一部のようだった。
さらに、扉の両側には四つ足で立ち、口元に長い髭をたくわえたキリンのような置物が、まるで番人のように睨みを効かせていた。
装飾の色は紫や金色で、見れば見るほど現実感が薄れていく。
だが、それでも確かに自宅だった。
外壁の色や窓の配置、表札に刻まれた自分の名字――細部こそ違うものの、全体像は「自分の家」そのものだった。
「これは夢か、それとも…」
足がすくみ、玄関から入る勇気が出なかった。
胸の奥の不安は、今や恐怖へと変わっていた。
僕は家の裏手に回り、台所の窓からそっと中を覗き込んだ。
ガラス越しに見えたのは、居間で談笑する父親と、学校の音楽教師だった。
だが、父親は紫色の甚兵衛を着ており、その姿はどこか異様だった。
音楽教師も、見慣れた笑顔のはずなのに、どこか仮面のような硬さがあった。
二人の声は聞こえないが、空間には違和感が漂っていた。
その瞬間、僕の脳裏には、当時夢中でプレイしていた『ドラクエ3』の裏世界の情景がフラッシュバックした。
「裏世界に来てしまったんだ!」
全身が粟立ち、呼吸が浅くなる。
手足が冷たくなり、心臓が胸を激しく打ち始めた。
逃げなければ。
もう一度あの地下道を通れば、元の世界に戻れるのではないか。
そんな一縷の望みにすがり、僕はグランドへ駆け戻った。
夕闇が一層濃くなり、空気はさらに冷えていた。
手に汗をにじませながら、再び錆びた扉を開け、梯子を慌てて下りる。
金網の上を全速力で走り、足音が異様に大きく響く。
遅れれば二度と戻れない――そんな直感に突き動かされ、必死で元来た道を引き返した。
恐怖が全身を支配し、冷や汗が背中を伝う。
息が切れ、喉が焼けるように渇いていた。
ようやく最初の扉までたどり着き、梯子を這い上がる。
腕が震え、力が抜けそうになるのを必死で堪えた。
蓋を押し上げて地上に出ると、そこは見慣れたグランド、そしていつもの夏の日の光景が広がっていた。
安堵と脱力が同時に押し寄せ、膝から力が抜けそうになる。
あの出来事以来、僕は二度とグランドには近づけなくなった。
グランドを見るだけで、背筋が冷たくなり、あの異様な世界へ再び引き込まれるのではないかという恐怖に襲われた。
やがて時は流れ、家族で別の町へ引っ越すことになり、結局あれが何だったのか、真実を知ることはできないままだった。
それでも、あの日の体験は心の奥底に根を張り続けている。
半年ほど前、仕事でかつての町を訪れる機会があった。
懐かしさと、そしてわずかな恐れを胸に、グランドの跡地を訪れてみた。
半分は駐車場に変わっていたが、グランドの一部はまだ残っていた。
だが、あの扉のあった場所へ近づこうとした瞬間、全身を貫くような恐怖が蘇り、どうしても足を踏み入れることができなかった。
あれはいったい何だったのか。
夢だったのか、現実だったのか。
今でも、あの時感じた空気の重さ、光の色、心の奥に渦巻く恐れの感触は、寸分違わず鮮明に覚えている。
長い話になってしまったけれど、これは紛れもなく、僕自身の「不思議な記憶」のすべてだ。
不思議な話:夏の終わり、裏世界の記憶――グランドの地下扉と異界の家に迷い込んだ日
夏の終わり、裏世界の記憶――グランドの地下扉と異界の家に迷い込んだ日
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