あの日も、例のごとく曇天が窓の外に広がっていた。
太陽はまだ午前の空を突き抜けられず、白くぼんやりとした光が、ビルのガラス窓越しに私たちのオフィスに降り注いでいた。
蛍光灯の冷たい光と混ざり合い、机の書類や黒電話の受話器に微かな影を落とす。
空調は控えめに作動し、乾いた風が紙の端をかすかに揺らしていた。
私は新入社員としてのまだぎこちない手つきで、書類を整理しながら電話の前に座っていた。
このオフィスには、連番で取得された電話番号が10本並んでいる。
下1桁が「0」から「9」まで、数字の階段のように整然と。
まるで一本の幹から分かれ出た枝のように、それぞれが独自の行き先と物語を持つ。
私はそのうちの一つ、「1003」の電話の前を任されていた。
受話器のプラスチックは使い込まれ、指に触れるとひやりとする。
その日の午前、オフィスにはまだ始業直後の静けさがあった。
キーボードの打鍵音、コピー機が紙を引き込む音、誰かがコーヒーカップを机に置く小さな衝撃音。
みな淡々とルーティンをこなしていた。
そんな中、最初のコール音が響いた。
乾いたベルの音が空気を振るわせ、私の鼓動が一瞬同期する。
受話器を取り上げると、「はい、○○株式会社でございます」と、まだ緊張の混じる声で応対した。
しかし、電話の向こうから聞こえてきたのは、はっきりとした年配女性の声。
どこか焦りと苛立ちの混じった調子だった。
「もしもし、あの、○○さんに繋いでいただける?」
名前に聞き覚えがない。
「申し訳ありませんが、そのような者は在籍しておりません」
「え?そんなはずないわよ。
電話番号、間違ってないと思うんだけど…」
声に微かな不安と苛立ちが混ざる。
その一瞬、受話器越しに彼女の部屋の空気まで伝わってくるようだった。
たぶん、電話帳を片手に、何度も番号を見直しながらかけているのだろう。
このやりとりが、まるでループするかのように何度も繰り返された。
電話を切っても、しばらくするとまた同じ番号から着信がある。
時間が経つごとに、彼女の声は少しずつ鋭くなり、ため息や舌打ちが増えていく。
オフィスの空気も変化していった。
周囲の同僚たちは最初こそ気にも留めなかったが、何度も同じ相手と話している私の様子に気づき、ちらちらと視線を送るようになった。
私は徐々に肩に力が入り、手のひらにじんわり汗をかく。
受話器の重みが不思議と増したように感じる。
「またあの人ですか?」と小声で聞かれ、私は曖昧に微笑むしかなかった。
電話の応対は私の新人としての日常業務だったはずなのに、この時ばかりは心がざわついた。
心臓が胸の奥で早鐘を打ち、口の中が乾いていく。
何度も繰り返される応答のたびに「間違い電話ではありませんか」と伝えるが、彼女は次第に感情を剥き出しにしていく。
「何なのよ!どうして毎回あんたが出るの!」
声は甲高く、怒りと混乱が入り混じっていた。
その瞬間、私の耳の奥でベルの余韻が残響し、言葉の刃が鼓膜を刺した。
私の手は受話器を持ちながら微かに震え、背中には冷たい汗が伝う。
私は深呼吸し、会社が連番で電話番号を取得していること、だから似たような番号にかけても同じ会社に繋がることを丁寧に説明した。
だが、彼女の怒りは収まらない。
電話の向こうで小さな物音が聞こえ、もしかしたら机を叩いているのかもしれない、と想像した。
「もういいわよ!」
そんな捨て台詞を残し、唐突に電話は切れた。
一瞬、オフィスに静寂が戻る。
外の道路からは遠く車の走る音が微かに聞こえた。
私はしばらく受話器を手にしたまま、ぼんやりと窓の外に目をやった。
遠い雲の切れ間から、かすかな光が差し込んできた。
ふと、あの女性は果たして本当にかけたかった相手に辿り着けたのだろうか、と考える。
彼女の混乱と苛立ちの残響が、私の耳の奥にしつこく残る。
それはまるで、連番で並ぶ電話番号の一つ一つが、誰かの思い違いや些細な間違いによって、知らない物語を呼び寄せてしまうことを暗示しているかのようだった。
私は机の上の受話器をそっと置き直し、まだ手のひらに残る冷たさと、ほんのりとした汗のべたつきとともに、小さく溜め息をついた。
外の光は少しだけ明るさを増していたが、私の心にはいまだに、あの声の余韻が小さな影を落としていた。
仕事・学校の話:迷い込む電話、連番オフィスで繰り返される声—新入社員の耳に残る不協和音の午前
迷い込む電話、連番オフィスで繰り返される声—新入社員の耳に残る不協和音の午前
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