あの日の空気はいまも、胸の奥底に沈殿している。
5歳の私が、父の転勤で都会から遠く離れた山間の小さな町に引っ越してきてから、季節は二度目の夏を迎えようとしていた。
新しい家は木造の平屋で、床板は軋み、夜はどこか湿った木の匂いが漂った。
窓の外には田んぼが広がり、夜になると蛙の声と遠くの川のせせらぎだけが、静けさに波紋を広げていた。
父の仕事が忙しく、母も慣れない土地に戸惑いながら家事に追われていた。
私は自分の小さな部屋で、ひとり布団にくるまって眠るのが習慣になっていた。
ある晩のことだった。
私の部屋は北向きで、月の光が障子ごしに淡く差し込んでいた。
障子の紙には、庭の柿の木の影がゆらゆらと揺れていた。
その夜はなぜか、布団に入ってもしばらく眠れなかった。
耳を澄ませば、家のどこかで夜風が木の壁に当たる音や、時折遠くで犬が吠える声が混じり合っていた。
心臓が妙に早く打つのを感じながら、私は天井の木目をじっと見つめていた。
そのときだった。
部屋の隅に、ぼんやりと青白い光が浮かび上がった。
息を呑んだ私の目の前に、まるでアラジンのランプから現れたような、不思議な人影が現れたのだ。
その人は背がとても高く、輪郭がややぼやけていて、身体の外側が淡い金色の光をまとっていた。
顔立ちははっきりしないが、どこか優しげな微笑みを浮かべているように感じた。
衣服は異国の絹のようにきらめき、ゆったりとした袖が静かに揺れていた。
部屋の空気が一気にひんやりとし、布団越しに肌がざわつく。
私は呼吸を忘れ、ただその人を見つめていた。
その人は、静かに――けれどもどこか包み込むような声で、「夜の散歩に連れていってあげる」と囁いた。
声は風鈴のように澄み、耳の奥に柔らかく残響した。
私はその言葉に不思議と恐怖を感じなかった。
むしろ心の奥底で、見知らぬ何かに出会う喜びがふくらんでいくのを感じた。
幼い私は、何の疑いもなく、魔法のような体験に誘われるまま、その人の背中にそっと乗った。
背中は思いのほか温かく、絹のような感触がした。
私の体を優しく包み込むような安心感があり、心地よい甘い香りが鼻先をくすぐった。
部屋の床板の冷たさや布団の重みが、すっと遠ざかる。
その人は、滑るように部屋を進み、襖を通り抜けて隣の両親の部屋へと向かった。
私はふと、父と母が静かに眠っている気配を感じたが、声も出さず、ただ背中にしがみついていた。
家の中の空気はどこか粘着質で、夜の静寂はより深く、重く感じられた。
廊下を抜けると、突然、私たちはふわりと宙に浮かんだ。
時間が止まったような感覚――重力が消え、体がふわふわと浮遊する奇妙な快感。
窓の外の景色がぐんと近づき、気づけば私たちは屋根の上に立っていた。
夜風は思ったよりも生温かく、髪がふわりと揺れた。
遠くの町並みは、闇の中でオレンジ色の街灯がぽつぽつと灯り、まるで星座のように浮かび上がっていた。
その人は私を背負ったまま、ゆっくりと空へと舞い上がった。
下界の景色が小さくなり、田んぼや小川、家々の屋根がどんどん遠のいていく。
空気は次第に澄み、冷たさが肌を刺した。
耳元で風がびゅうびゅうと鳴り、夜のしじまに溶け込んでいく。
私は胸が高鳴るのを感じながら、目の前の夜景に釘付けになった。
町の隅々まで見渡せた。
小さな神社、曲がりくねった裏道、赤い屋根の商店――見たこともなかった場所まで、まるで地図のようにくっきりと見えた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
いつのまにか私は、また自分の布団の中に戻っていた。
夢だったのか、それとも現実だったのか、判断がつかなかった。
ただ、体に残る風の感触と、空の匂い、胸の奥の高揚感だけが、確かなものとして残っていた。
それからしばらくして、再びその人が現れた。
今度も夜だった。
部屋の空気がふと重くなり、あの淡い金色の光がゆらめいた。
私は以前よりも少しだけ勇気を持って、その人の背中に飛び乗った。
目を閉じると、鼓動が耳の奥で大きく鳴り響いた。
今度は空のさらに高い場所まで連れていってくれた。
町を見下ろす高さをあっという間に通り過ぎ、やがて私たちは巨大な半透明のえんとつのようなものの中に入っていった。
えんとつの内側は淡い銀色に輝き、冷たい霧がゆっくりと流れていた。
私たちはその中をくるくると螺旋を描きながら、どんどん上へと昇っていく。
空気は薄く、息を吸い込むとちょっぴり金属のような味がした。
下を見ると、町も家も、点のようになっていた。
やがて、頭上に分厚い天井が現れた。
そこには大きな蓋があり、私はどうしてもその上に行きたくなった。
「この上に行きたい」と言うと、魔法使いのようなその人は、静かに首を振った。
「まだ若いから、この上には行ってはいけない」
その声は、どこか遠い記憶を呼び覚ますような響きだった。
私はなぜか、説明できない寂しさと、ほんの少しの恐怖を感じた。
そのまま、私たちはゆっくりと地上へと降りていき、私は自分の布団のぬくもりの中に戻っていた。
朝になっても、あの夜の体験は鮮烈に記憶に残っていた。
両親に町のことを細かく話すと、二人は顔を見合わせて首を傾げた。
「そんな場所、行ったことないはずなのに……」
私は胸を張って「魔法使いに連れて行ってもらったんだよ」と言ったが、母は苦笑し、父は静かに私の頭を撫でた。
ただ、私の話があまりに具体的だったので、両親はどこか落ち着かない様子だった。
今思えば、あれは夢だったのかもしれない。
けれど、あのときの夜風の匂い、空を飛ぶときに体を包んだ冷たい空気、魔法使いの温かな背中の感触――すべてが、今も私の五感の奥に生きている。
そして、あの天井の向こうに何があったのか。
今も私は、時折夜空を見上げては、あの半透明のえんとつを想像してしまうのだ。
不思議な話:夜風に連れ去られた幼き夜――田舎の家で出会った幻の魔法使いと空中散歩の記憶
夜風に連れ去られた幼き夜――田舎の家で出会った幻の魔法使いと空中散歩の記憶
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