忘れられない夜がある。
それは、父の転勤で都会の喧騒から遠く離れた田舎の町に引っ越してきて、季節がひとつ、静かに巡ったころだった。
窓の外には、闇を切り裂くように虫の声が響き、畳の匂いがまだ新しかった。
私は五歳の、小さな掌を布団の端に握りしめて、その夜もひとり、部屋の天井を見つめていた。
眠りの国へ落ちていく寸前、ふいに部屋の空気が変わった。
それは、誰かが静かに障子を開けたような気配だった。
私は目をこすり、身を起こした。
するとそこに、巨大な影が立っていた。
月明かりが、彼の輪郭を曖昧に照らす。
アラジンのランプの精のような、異国の衣をまとった男。
顔は薄靄の向こうにあるようで、正体はつかめない。
ただ、その瞳の奥に、夜の湖面のような、深く静かな輝きがあった。
「夜の散歩に、連れていってあげよう」
その声は、遠い井戸の底から響くようで、なのに不思議と温かかった。
幼い私は、恐れを知らず、ただ頷いた。
彼の背中は大きく、広い。
私はそこによじ登ると、畳の上の冷たさも、ひとりで眠る心細さも消えていった。
彼は、私を背負ったまま、音もなく部屋を抜け出した。
壁も扉も、まるで霧のようにすり抜けていく。
やがて、私たちは家の屋根を越え、夜の空へ浮かび上がった。
下には、闇に沈む町が広がっていた。
街灯の明かりが川のように連なり、畑の上には白い霧がたなびいている。
夜風が、私の髪をやさしく撫でていった。
私は腕を広げ、風の匂いを吸い込んだ。
土と草の混じる、記憶に残る田舎の夜の匂い。
「ほら、あれが橋だよ」「あの屋根の赤い家は、誰のうち?」
私は彼の肩越しに、まだ見たこともない町の隅々を指差して、無邪気に尋ねた。
やがて地上へと降り立ち、私は元の部屋に戻された。
けれど、その夜の魔法は終わりではなかった。
しばらくして、再び彼は私の前に現れた。
今度は、夜の町を飛び越えたあと、もっと高く、雲の上まで連れていってくれたのだ。
空には、巨大な半透明の煙突が立っていた。
私たちはその中に入り、らせんを描くように、どんどん上へと昇っていった。
指先に冷たい空気がまとわりつき、足下で雲が渦巻いた。
けれど、煙突のてっぺんには、分厚い蓋が閉じられていた。
「この上に行きたい」
私は、夢の続きを求めてそう告げた。
彼は、しばし沈黙した。
「まだ若いから、この上には行ってはいけない」
低く、優しい声が、私の心にそっと触れた。
私は、彼の背に揺られながら、ゆっくりと地上へ降りていった。
目を覚ましたとき、カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込んでいた。
夢だったのだろうか。
けれど、心のどこかで、あの夜の風の冷たさと、町の灯りの温もりが、確かに残っていた。
朝食の席で、私は両親に町のことを話した。
「夜に、あの赤い屋根の家を見たよ」「橋の向こうに、白い犬がいたんだ」
父と母は、顔を見合わせて、首を傾げた。
まだ行ったことのない場所や見たことのない景色を、私はなぜか、正確に言い当てていたらしい。
「魔法使いに連れていってもらったんだよ」
私は、言った。
けれど、母は微笑みながら、私の髪を撫でただけだった。
「また、夢を見たのね」
その声の奥に、少しだけ戸惑いが混じっていた。
それが、現実だったのか、ただの夢だったのか。
あの夜の魔法は、いまも私の胸の奥で、薄い靄となって漂っている。
時折、夜の帳が降りるとき、私は思い出す──
あの深い瞳の中に、自分の幼い心が映っていたことを。
不思議な話:夜空を歩くランプのひと──幼き日の夢と秘密
夜空を歩くランプのひと──幼き日の夢と秘密
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