修羅場な話:冬の沖縄、泡盛と記憶の檻

冬の沖縄、泡盛と記憶の檻

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その年の冬、私は沖縄へ旅立った。
計画は一年がかりで、財布の中身を少しずつ膨らませながら、日常の合間に夢を温めてきた。
五人のママ友たちと、幼い子どもたちを家に残し、母親ではなく「私」としての時間を取り戻すための旅だった。

 那覇空港を降りた瞬間、湿り気をはらんだ南国の空気が頬を撫でた。
東京の灰色の寒さとは異なる、どこか無防備な温度だった。
サトウキビ畑の向こうに広がる青空が、まるで私たちを試すように高く澄んでいた。

 夜、ホテルのラウンジで、泡盛のグラスがテーブルに並ぶ。
グラスの中で氷が音を立てて溶けていくたび、心の鎧も少しずつ緩んでいった。
笑い声が跳ね、普段なら口にしないような冗談も、酒の勢いに背中を押されて宙を舞う。
遠くで波の音が絶え間なく押し寄せ、夜風がカーテンの隙間から甘い潮の香りを運んできた。

 その夜更け、地元の男たちが声をかけてきた。
最初はただの世間話。
だが、泡盛のせいか、非日常のせいか、私の心は少し浮かれていた。
見慣れない夜の色彩に、日常の輪郭がぼやけていく――そんな錯覚に酔っていたのだ。

 翌日、私たちはホテルの露天風呂を貸し切った。
湯気が夜空に溶け、星が瞬いている。
肌を撫でる湯の感触に、ふと現実が遠のく。
だが、そこに思いもしない男たちの影が現れた。
彼らは、昨夜私たちをナンパしてきた地元の男たちだった。

 「今夜は楽しもうね!」
 ママ友の一人が、軽く言った。

 その声は、冗談とも本気ともつかず、湯気の向こうでかすかに揺れていた。
私は、思わず息を呑んだ。
何かが、静かに崩れはじめていた。

 慌てて湯から上がり、濡れた肌のまま浴衣をはおる。
部屋に戻ると、今度は別の男たちが、何事かを待つかのように全裸で佇んでいた。
もう一人のママ友が、ベッドサイドでタオルを巻きながら、無邪気にこちらを見て言った。

 「ねー、すぐに始める?」

 言葉が、耳の奥で鈍く反響する。
空気が重たく沈み、心のどこかが冷たく締めつけられた。
私は二人の友人と目を合わせ、何も言わずにロビーへ向かった。
フロントで事情を説明すると、スタッフは静かに頷き、別のホテルへの移動を手配してくれた。

 あの夜、街灯の下を歩きながら、私は自分の足音ばかりを気にしていた。
冬の沖縄の風が、浴衣の裾をはためかせ、冷たい現実が肌を刺す。

 「ママ友だけで旅行するって、こういうことでしょ?」
 残してきた二人は、そう言っていたらしい。
けれど、私の中にあった「友情」や「信頼」は、あの夜の出来事を境に、かすかな亀裂を孕んでしまった。

 いま思えば、たしかに下世話な話で盛り上がったこともあった。
だけど、あの夜の空気、あの湯気の向こう側にあったものは、私が知っていたはずの世界とは別物だった。

 その後、数年間、私は沖縄の名前を聞くだけで胸がざわついた。
あの夜の湿った風、泡盛の苦味、湯気の向こうに見えた他人の顔。
それらが、記憶の奥で絡まり合い、私を遠ざけていた。

 けれど今年、家族で沖縄へ行くことになった。
朝靄の立ちこめる空港、手をつないだ子どもの温もり。
私は自分の中の恐れにそっと触れながら、静かに思う。
「すべてを抱えて、また歩き出せるだろうか」と。

 旅は、時に人の心の底に沈んだものを浮かび上がらせる。
忘れたかった記憶も、今はただ、過ぎ去った季節の一片として、静かに綴っておこうと思う。
読了
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