思い出すだけで、背筋にぞくりと冷たいものが走る。
あの体験は、もはや単なる「奇妙な出来事」などではない。
自分の存在そのものを根底から揺さぶる、現実と非現実の境界線が融解する瞬間だった。
けれど、どうしてもこの話を書かずにはいられない。
言葉にすることで、自分の魂が少しでも安堵を得られるのではないか、そんな衝動に突き動かされている。
平成20年6月24日。
梅雨特有の重苦しい湿気が空気を飽和させ、体温よりも高く感じる外気が肌を包み込んでいた。
俺は、汗で首筋や背中がじっとりと濡れたシャツに不快感を覚えつつ、顧客名簿を片手にH市内をさまよっていた。
アスファルトは湿り気を帯びて黒光りし、遠くには霞んだ雲が低く垂れ込めている。
ビル群の隙間から差し込む光は鈍く、どこか不穏な色合いを帯びていた。
湿った空気は喉にまとわりつき、ペットボトルの冷たいお茶を握る指先だけが、かろうじて現実感を保っていた。
ようやく見つけた某ビルの横の日陰。
そこは、午後の熱気から逃れる数少ない避難所だった。
軒下のコンクリートはまだ冷たさを残しており、その冷気を求めて俺は腰を下ろした。
汗ばんだ手でシャツの襟元を引き、扇子もないので手のひらで顔を仰ぐ。
時計を覗くと、15時30分。
あと何件まわれば今日の仕事が終わるのか。
シャツはもう背中まで汗でぐっしょり、布地が肌に貼りついて重い。
「シャツを着替えなきゃ…」
そう思いながら、バッグの中を覗き込む。
バッグの中身は整理されているはずなのに、指先はじっとりと湿っており、それが妙に不快だった。
シャツの生地の感触、汗と繊維の入り混じった匂い。
自分の身体が生々しい現実の塊であることを、嫌というほど思い知らされる。
その時だった。
突然、真上で甲高く、空気を切り裂くようなトンビの鳴き声が響いた。
「ピーヒーヨロ――」
その音は、まるで時間そのものを引き裂く裂け目のように、耳の奥深くに刺さった。
ほんの一瞬、空気の密度が変わった気がした。
音の余韻が消えると同時に、視界の周囲がゆっくりと暗転していく。
目の前の世界が波紋のように歪み、現実が遠ざかっていくような錯覚。
身体が一気に軽くなり、地面の冷たさすらも遠のいていく。
――どれくらい時間が経ったのだろうか。
次に意識を取り戻したとき、世界はすっかり別の表情を見せていた。
夕焼け色に染まる空。
けれど、そこに広がる景色は、俺が知っているH市のビル群ではなかった。
周囲をぐるりと見渡す。
眼下に感じるのは柔らかな土の感触。
手をつけば、しっとりと湿った泥が指の腹にまとわりつく。
見上げれば、藁葺き屋根の家が点在し、田んぼの畦道が夕闇に溶け込んでいる。
遠くからは蛙の合唱が聞こえ、湿った土と青草の匂いが鼻腔を満たす。
その一方で、遠くの山並みが紫色の靄に沈み、空気はどこか澄んでいるのに、現実感が希薄だった。
「どこここ(笑)」
思わず口から漏れた言葉は、かすれ、乾いていた。
喉はカラカラで、舌先に土埃の味が残る。
熱射病で倒れた?誰かが助けてくれた?それとも――
ポケットから携帯電話を取り出す。
手は震えていた。
液晶画面に表示された「圏外」の二文字。
アンテナはまったく立たない。
時間を見ると19時30分。
俺はどれだけここで寝ていたのか。
「誘拐か…?途中でどこかに捨てられた?」
頭の中が混乱し、考えが一つにまとまらない。
こめかみが脈打ち、鼓動が早まる。
呼吸は速く、汗が冷えはじめて寒気がした。
「家に帰らないと…」
本能的にそう呟き、ズボンについた泥を叩き落とす。
辺りには街灯も車の音もない。
静寂の中に、時折風が稲穂を揺らし、さやさやと音を奏でている。
遠くで犬が吠える声が、やけに生々しく響く。
ふと、藁葺き屋根の家の一軒から、淡い灯りがもれているのが目に入った。
電球の白さではなく、暖色の炎が揺れている。
「電話…借りられるかもしれない」
その一縷の希望にすがり、足を引きずるようにして家へと歩み寄る。
歩くたびに土の感触が靴底に伝わり、草の匂いが強くなる。
玄関前に立つ。
呼び鈴を探すも、暗闇の中では見つからない。
耳を澄ませば、家の中からは人の気配はするが、声は聞こえない。
灯りの揺らぎが障子越しにぼんやりと映り、家全体が息を潜めているかのようだった。
そっと障子の引き戸に手をかける。
木の感触はざらついており、長年の風雨に晒された匂いが指先から伝わる。
「こんばんは〜。
すいません、電話を貸してほしいんですけど〜」
声が震える。
自分の声がこの静けさに不釣り合いに響いた気がして、急に恥ずかしさすら覚える。
中にいたのは、深い皺を刻んだ老夫婦。
照明は電気ではなく、あんどんの炎が揺れている。
光は柔らかく、空間に橙色のグラデーションを描き出していた。
ご主人がゆっくりと立ち上がる。
着ている着物は色褪せ、しかし清潔に畳まれている。
「どちらさんだ?」
低く、しかしどこか温かみのある声。
「すいません。
ちょっと電話を貸していただければと思ってですね。
ごめんなさい夜分に」
営業スマイルを無理やり顔に張り付けるも、声は乾いていた。
「でん…わ?でんわとはなんね?うちには米もみなもってかれとるんで、なんにもないんじゃがのう」
ご主人は首を傾げ、訝しむように俺を見つめる。
「電話を…知らない?」
俺の中で何かが崩れかける。
目の端であんどんの炎が揺れ、影が壁に踊るのが見えた。
ご主人がさらに近づき、顔を覗き込む。
その顔は、疑念と警戒心、同時にどこか懐かしい優しさも湛えている。
「あんさま、どっからきんさった?お武家さんかえ?」
「おぶけ…?」
言葉の意味が分からない。
自分の存在が、ここでは異質なものなのだと、肌で理解する。
「ごめんなさい、おじいちゃん。
ここは一体どこですか?」
声が上ずり、呼吸が浅くなる。
ご主人と奥さんが顔を見合わせ、小さく頷き合う。
「ここはK村じゃが。
あんさまはどっからきんさった?」
K村――確かに昔は村だった。
だが、今は町のはず。
記憶の中のK町は、舗装道路もある、普通の地方都市の一部だ。
だが、ここには街灯さえない。
生活の全てがアナログで、携帯は圏外。
「ありえない…」
頭の中で何度もそう繰り返す。
そのたびに、現実の地面が足元から剥がれていくような不安感が膨らむ。
「すいません…俺H市から来たんですけどね。
今は西暦何年ですか?」
恐怖と期待が入り混じった声で訊ねる。
ご主人は呆けたような目で、「せいれきっちゃーなんね?食べれるもんかね?うちにはないがのう」と答える。
絶望と滑稽さが胸を圧迫する。
「じゃあ、おじいちゃん。
元号は?明治?大正?」
声が上ずり、手が震える。
「げんごうっちゃなんかいのう?わしにはよーわからんて」
申し訳なさそうに目を伏せるご主人。
「なんていうの?応仁何年とか元禄何年とかあるじゃん?あれわかんないですかねー?」
自分でも何を言っているのか分からない。
焦燥感だけが増幅し、胸が痛い。
ご主人は困り果て、「すまんのじゃが、うちはなんもわからんけぇ、よそ当たってぇや」と障子戸を静かに閉めた。
カタン、という音が、夜の静寂に吸い込まれていく。
再び携帯のアンテナを確認。
やはり圏外。
「ここがK町なら…あっちがH市の方角だ」
淡い希望を頼りに歩き出す。
「タイムスリップなんて、あり得ない。
少し歩けばきっと…」
自分に言い聞かせるように、歩幅を大きくする。
だが、どれだけ歩いても舗装道路は現れない。
木々の間から夜風が吹き抜け、草むらの中で虫が鳴いている。
川のせせらぎが聞こえ、川原に降りて顔を洗う。
冷たい水が頬を伝い、意識が少しだけ鮮明になる。
靴を脱ぎ、足を川に浸す。
冷たさが皮膚を刺し、疲労と空腹が同時に押し寄せる。
「やべぇ。
足がだるいし腹減ってきた。
車通らないし、本当にタイムスリップしてたりして…(笑)」
自嘲気味に笑うが、心の奥底では恐怖が膨らんでいた。
「早く会社に戻らないと…女房も子供も…」
現実世界で自分を待つ人たちの顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
胸がぎゅっと締めつけられる。
「なんとか携帯が入る場所まで…」
歩き続ける決意を固める。
どれだけ歩いただろう。
2時間、いやもっとかもしれない。
暗闇の中、時折遠くに民家の灯りがちらつく。
ほとんどが藁葺き屋根で、時代錯誤の景色が続く。
武家屋敷のような立派な屋敷も見かけるが、どこも灯りは消えている。
携帯の画面を確認するも、やはり圏外。
東の空が白み始めた頃、人影がぼんやりと浮かび上がる。
その姿は、現代日本のものではなかった。
髷を結い、刀を差した武士。
上半身はベストのようなもの、下半身はふんどし一丁の男。
着物を着たおばさん、籠屋の男たちまでいる。
彼らは、まるで異物を見るかのような視線で俺を見つめる。
「これは…本当にヤバい」
警戒と恐怖が全身を駆け巡る。
「こんなところで『不審者』扱いされて、もし獄門磔なんてことになったら…」
心臓が跳ね上がり、汗が冷たくなる。
人目を避けるように走り出す。
その瞬間、否応なしに自分が「タイムスリップ」したという事実を認めざるを得なかった。
大きな川が横を流れている。
昔の地図の記憶をたどれば、これはO川に違いない。
「この川沿いを行けば、H市に辿り着けるはず…」
だが、その道筋には多くの人がいるだろう。
異質な自分が目立てば危険も増す。
「川を泳いで下る…?」
一瞬頭をよぎるが、携帯が水濡れするのが惜しい。
平成の文明の最後の砦。
それでも、「早く中心部に行って、本当にタイムスリップなのか確かめないと…」という焦りが勝る。
しかし、そもそも確かめてどうする?
「元の時代に帰れないと意味がないじゃん」
頭の中が堂々巡りを始める。
鼓動は速く、呼吸は浅く、全身の筋肉が緊張して硬直する。
「世の中で『神隠し』と言われた人は、こういう体験をしたのか…?」
無意識のうちに涙が込み上げてくる。
「この時代で生きていくしかないのかもしれない」
川べりに座り込み、声を押し殺して泣いた。
涙は土に吸われ、やがて乾いた頬に冷たい風が当たる。
「大人になってから、こんなに泣いたのは…」
去年の夏、テレビで「はだしのゲン」を観て涙した時以来だった。
諦めの感情が、胸の奥底からじわじわと広がる。
涙はもう出なかった。
ただ、現実感が失われ、身体が宙に浮いたような感覚に包まれる。
「この服のままじゃ、目立ちすぎる…」
現代の服は異質そのものだ。
「町に出て、服をどうにかしなきゃ」
決意のようなものが生まれ、スラックスを膝のあたりで石で裂いた。
Yシャツはタオル代わり。
Tシャツとボロボロのズボン姿なら、多少は目立たないはず。
「まるでロビンソン・クルーソーだな…」
苦笑と共に、新たなサバイバルの決意が芽生える。
腹の減りも限界に近い。
町を目指して歩き出した。
やがて、道幅20メートルはあろうかという広い通りに出る。
そこでは露店がずらりと並び、野菜や果物が山積みになっている。
「昔の人は、背が低いな…」
自分は175cmだが、周囲の男は160cm前後が多い。
目立ちたくなくても、どうしても目立ってしまう。
露店の前に立つ。
店主はおばさん。
「おばちゃん。
タダでいい野菜くれない?」
営業スマイルを精一杯浮かべる。
「そこの折れ曲がったキューリ持っていきんさい」
差し出されたキュウリを手に取り、「ありがとおばちゃん♪」と礼を言う。
口の中に広がる青臭い味。
空腹で涙が出るほど美味い。
時計を見ると15時。
「27時間ぶりの食事…」
涙と共に、命のありがたさを噛み締める。
ふと、通りの向こうで行列が目に入る。
馬に騎乗した武士、篭が5台、徒歩の侍が15人ほど。
通行人は脇に避け、緊張感が走る。
そのうちの3人は、合戦姿の侍で、背中には家紋入りの旗。
旗に書かれた文字――「慶長7年」。
「…歴史の勉強しとけばよかった…」
絶望にも似た感慨が胸を突く。
後で調べると、それは関ヶ原の戦いの直後、徳川家康もまだ存命の時代だった。
「日銭を稼がなきゃ…」
生きるため、港を目指して歩き始める。
その時、一人の男が話しかけてきた。
髷はなく、町人よりも質の良い生地の着物。
初老の男で、口にはキセル。
「にーちゃん、ライター持ってない?」
一瞬、思考が停止した。
「この人…『ライター』って言ったぞ?」
ポケットに手をやるも、平成のライターはもうない。
「ごめんなさい。
ちょっとライター持ってないんですよ」
そう答えた瞬間、男はニヤリと笑った。
「で、何年から来たんだ?昭和か?平成か?」
稲妻のような直感。
「この人も…タイムスリップした人か」
「平成20年です」
「俺は平成11年にこっち来たよ。
とりあえず飯でも食うか?どうせ腹減ってんだろ」
男の声はどこか懐かしく、救いのように響いた。
10分ほど歩く。
立派な和風の家。
白米、漬物、焼き魚、吸い物――
「腹いっぱい食べんさいよ」
その言葉に、またも涙が溢れる。
五臓六腑に染み渡る温かさ。
「これが…人の優しさか…」
食後、男が語り始める。
「俺だけ帰れないんだ。
今まで明らかに未来人と分かるやつが8人来た。
みんな突然消えて帰れたっぽいんだけど、俺だけ帰れない。
にーちゃんも2、3日すればきっと帰れるよ。
住まいはどこだい?H市かい?俺はH市のI町なんだけどな」
平成11年の夏、H市内でトンビの鳴き声を聞いた瞬間にタイムスリップしたという。
この9年間、帰れぬままこの時代で生き、家を持ち、同じ境遇の人々を救い、見送ってきた。
男の名はM木さん。
「にーちゃん。
もしちゃんと平成に帰れたら頼みがあるんだが、聞いてくれるか」
M木さんの頼み――
「俺は生きてる。
会えないかもしれないが子供たちを頼む。
いつか帰れる日が来るかもしれない。
その日まで家を守ってくれ」
伝言の内容を頭に刻む。
涙は止まらない。
翌日。
M木さんの畑仕事を手伝い、彼の人生と江戸幕府の話を聞く。
歴史の生々しさ、時代の息遣いが肌に染み込んでいく。
そして、またトンビの鳴き声が――
「ピヒーヨロー」
目の前が白くなり、意識が遠のく中、M木さんが優しく手を振る姿だけが焼き付いた。
――次に目覚めたのは、病院のベッドだった。
女房と子供が泣きじゃくり、俺の無事に胸を撫でおろしている。
会社にも連絡がつかず、失踪扱いで捜索願が出されたという。
俺が見つかったのは、最初にトンビの鳴き声を聞いたビルの隙間。
服装はボロボロのスラックスにTシャツ。
丸2日間昏睡していたらしい。
携帯は電池切れ。
M木さんの住所と電話番号を思い出し、病院の屋上から電話をかけた。
「はい、M木です」
女性の声。
「ご主人様からの伝言なんですが…」
伝えると、電話口から鼻をすする音が。
「…主人の消息を知らせてくれたのは、Sさんで5人目です」
8人のうち、3人は連絡できなかったのか。
あるいは、別の時代へ行ってしまったのか。
この体験を、女房にも友達にも話したが、誰も信じてはくれなかった。
だが、どうしても伝えずにはいられなかった。
あの湿度と、あの土の匂いと、あのトンビの鳴き声――
今も五感の奥底に、鮮烈に焼き付いている。
最後まで読んでくれたあなたに、心から感謝する。
不思議な話:湿度に滲む時空の軋み、呼吸する過去と現実―平成の男が辿った異界転移の全記録
湿度に滲む時空の軋み、呼吸する過去と現実―平成の男が辿った異界転移の全記録
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