不思議な話:黄昏とトンビの鳴くころに――異界をさまよう六月の記憶

黄昏とトンビの鳴くころに――異界をさまよう六月の記憶

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思い出の岸辺には時折、ひやりとした風が吹く。
平成二十年の六月――その日、私は汗ばむ街を歩いていた。
空は梅雨の名残を引きずり、灰色の雲がビルの谷間に垂れこめていた。
湿気は皮膚にまとわりつき、Yシャツは肌に張り付いて離れない。
私は顧客名簿を片手に、H市の雑踏をさまよっていた。

 午後三時半。
ペットボトルの緑茶を握りしめ、ビルの陰でひと息つく。
じっとりとした熱気の中、時計の針だけが無慈悲に進んでいく。
シャツを着替えようとカバンを探った、そのときだった。

 頭上で、鋭く切ない鳴き声が響いた。
「ピーヒーヨロ」――トンビの声。
次の瞬間、世界が深い闇に呑み込まれる。

 意識が遠のいた。
夢の底に沈むような感覚。
どれほどの時が過ぎたのか、私は知らない。
ただ、眼を開けたとき、世界はすっかり姿を変えていた。

 夕暮れ、茜色の残照だけがあたりを染めている。
私は田んぼの畦道に転がっていた。
見渡せば、藁葺き屋根の家々が数軒。
虫の声がせせらぎのように聞こえ、湿った土の匂いが鼻腔をくすぐった。
「どこここ……」無意識につぶやいた自分の声が、ひどく間抜けに響いた。

 携帯を取り出す。
画面には「圏外」の無機質な表示。
時刻は十九時半を指していた。
誘拐され、どこか知らぬ田舎に捨てられたのか。
胸の奥に不安がじわじわと広がる。

 家に帰らなければ――そう自分に言い聞かせ、土埃を払い立ち上がる。
あたりは闇が濃くなり始め、街灯の気配も、車の音もない。
ただ一軒、藁葺き屋根の家に仄かな灯が灯っていた。
私は藁をも掴む思いで、そちらへ歩み寄った。

 呼び鈴を探すが、見当たらない。
燈籠のような明かりが障子越しに揺れている。
人の気配を感じ、思い切って引き戸を開けた。

「こんばんは、すみません。
電話をお借りしたいのですが――」

 薄暗い室内、古びた畳の上に老夫婦が静かに座っていた。
ご主人はこちらをじっと見つめている。

「どちらさんだ?」

「すみません、ちょっと電話をお借りできれば……夜分に申し訳ありません」

 営業マンとして馴染みのある口調が、場違いなほど滑稽に思えた。

「……でんわ?でんわとはなんね。
うちは米もみなもってかれとるんで、なんにもないんじゃがのう」

 電話を知らない?――時代錯誤な違和感が、じわじわと胸を締めつける。
灯りは電気ではなく、炎が揺れていた。
私の常識が、音もなく崩れていく。

 老主人が一歩近づく。

「あんさま、どっからきんさった?お武家さんかえ?」

「……ごめんなさい。
ここは一体どこですか?」

 声が震えた。
ご主人は、困惑したように妻と顔を見合わせた。

「ここはK村じゃが。
あんさまはどっからきんさった?」

 K村――記憶の片隅にある地名だが、こんなに田舎ではなかったはず。
街灯のひとつもない世界。
私は、ありえない結論にたどり着くしかなかった。

 タイムスリップ。
漫画の中の荒唐無稽な出来事が、今、私の現実に牙を剥いている。

「すみません……いまは西暦何年ですか?」

「せいれきっちゃーなんね?食べれるもんかね?うちにはないがのう」

 ――絶望が、黒い水のように胸を満たしていく。

「じゃあ、元号は?明治?大正?」

「げんごうっちゃなんかいのう?わしにはよーわからんて」

 私は、崩れそうな心を必死に支えながら食い下がる。

「応仁何年とか元禄何年とか……わかりませんか?」

「すまんのじゃが、うちはなんもわからんけぇ、よそ当たってぇや」

 障子戸が静かに閉じられた。
私は、ひとり闇の中に取り残された。

 携帯は圏外のまま。
ここがK町なら、あの方向がH市――そう信じて歩きはじめるしかなかった。
舗装道路など見当たらず、足元の草が衣服を濡らす。
疲労は波のように押し寄せ、川のせせらぎに誘われて川原に降りる。
冷たい水が足を包み、現実の冷たさを思い知らせた。

 腹が減り、足はだるい。
私は自嘲気味に笑った。
こんなところで倒れてしまえば、女房も子供も二度と会えないかもしれない。
歩くしかなかった。

 やがて夜が明け始める。
闇の向こうに人影が現れはじめた。
髷を結い、刀を差した武士風の男たち。
着物姿の女たち。
籠屋までいる。
彼らの視線が、異物を見るように私を射抜いた。
言いようのない不安が背筋を這い上がる。

 私は走った。
逃げるように、人のいない方へ。

 大きな川が流れていた。
O川だ。
もし本当にタイムスリップしているのなら、この川沿いを行けばH市の中心に辿り着けるはず。
だが、現実は甘くない。
川を泳ぐには、携帯電話を失う覚悟がいる。
その小さな機械が、平成への唯一の糸口のように思え、私は思いとどまった。

 元の時代に帰れる保証などどこにもない。
女房や子供に会いたいと願うほど、どうしようもない無力感がこみ上げてくる。
腹は減り、涙だけが頬を伝った。

 やがて開き直りに近い感情が私を包み込む。
ここで生きるしかないのかもしれない――そう思って、服を裂き、Tシャツとぼろぼろのスラックス姿になる。
少しでも目立たぬように。

 広い通りに出ると、露店が立ち並び、野菜が山のように積まれている。
店主の老婆に声をかけてみる。

「おばちゃん、タダでいいから野菜くれない?」

 老婆は無造作に折れ曲がったキュウリを差し出した。
私はそれをありがたく受け取り、涙をこぼしながらかじった。
塩気も甘みも、すべてが生きている証だった。

 やがて、馬に乗った一団が大通りを進んでいく。
篭が五台、侍たちが十五人。
背中に旗を掲げた武士たち。
その旗には「慶長七年」と読める文字。
私は歴史の教科書を思い出し、絶望にも似た感嘆を漏らした。
関ヶ原の戦いが終わったばかりの時代――

 どうやって生きていこう。
日銭を稼がなければならない。
港に仕事があるかもしれないと歩き出そうとしたとき、一人の男が声をかけてきた。

「にーちゃん、ライター持ってない?」

 男は髷も結わず、しかし町人よりも上質な衣服を纏っていた。
初老の顔に、どこか現代的な影がある。

「ごめんなさい、ライターは……」

 その瞬間、私は気づいた。
男は「ライター」と言ったのだ。

「……で、何年から来たんだ?昭和か?平成か?」

「平成二十年です」

 私は、深い井戸の底から声を搾り出した。

「俺は平成十一年にこっち来たよ。
とりあえず飯でも食うか?腹減ってんだろ」

 男――M木さんは、私を自宅に招き入れた。
立派な和風の家だった。
白い米、漬物、焼き魚、吸い物。
涙が止まらなかった。

「腹いっぱい食べんさいよ」

 優しい声。
私は、これまで抑えていたものすべてを、静かに食卓に零した。

「俺だけ帰れないんだ。
今まで未来から来た人間が八人いた。
みんな突然消えて帰れたらしい。
にーちゃんも、二、三日すればきっと帰れるよ」

 私は、ようやく人間らしい温もりに触れた気がした。
M木さんの話は、私の心に灯をともす。

 翌日、畑仕事を手伝いながら、彼の生き様を聞いた。
帰れぬまま、この時代で根を張り、暮らしている男。
彼は、もし平成に戻れたなら、妻に伝言を託してほしいと頼んだ。

「俺は生きてる。
会えないかもしれないが、子供たちを頼む。
いつか帰れる日が来るかもしれない。
その日まで家を守ってくれ」

 私は深くうなずき、その言葉を心に刻んだ。

 その翌日、またトンビの鳴き声が空を裂いた。
「ピヒーヨロー」――その瞬間、世界が白く染まり、意識が遠ざかった。

 目が覚めると、病院のベッドの上だった。
女房と子供が涙を流して私を囲んでいる。
私は、二日間も眠り続けていたという。
見つかったのは、最初にトンビの鳴き声を聞いたあのビルの間。
服はTシャツにぼろぼろのスラックス。
携帯電話も、電池が切れるまで握りしめていた。

 私は、M木さんの伝言を胸に、病院の屋上から電話をかけた。

「はい、M木です」

 中年の女性の声。
私は、恐る恐る彼女に言葉を告げた。

「ご主人様からの伝言です――」

 彼女は、静かに、鼻をすする音を伝えてきた。

「そうですか、元気にやってましたか。
わざわざありがとうございます。
こうして主人の様子をお知らせしてくれたのは、Sさんで五人目なんですよ」

 私は、すべての出来事を妻や友人に語った。
だが、信じてくれる者はいなかった。
それでも、語らずにはいられなかった。
あの川辺で泣いた夜、私は確かに、別の時代を歩いていた――。

 ――黄昏とトンビの鳴くころに、私は世界の綻びを見た。
その裂け目から、いまも微かな風が吹いている。
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