工場の朝は、まだ夜の冷気を引きずっている。
灰色がかった薄明の空の下、郊外にぽつんと建つパン工場の建物だけが、無機質な蛍光灯の光に浮かび上がっていた。
駐車場に降り立ったとき、湿り気を帯びた冷たい空気が鼻腔を刺し、どこか甘ったるいような、発酵した小麦と油脂の混じり合った独特の匂いが、まだ開いていない扉の隙間から漏れ出していた。
時給1300円――その数字は、俺の心を何度も焚きつけた。
地方都市にしては破格の条件だ。
だが、初めて工場の内部に足を踏み入れた瞬間、その高時給の意味を、五感のすべてで思い知らされることになる。
工場内は手術室のように白く、どこか無機質だった。
壁も床も、光を反射してぼやけて見える。
天井から降り注ぐ蛍光灯の光は冷たく、影をほとんど作らない。
ただし、機械の間から漏れる赤い警告灯の点滅だけが異質なリズムで空間に揺らめいていた。
大型のミキサーの唸り、オーブンの重い扉が開閉するたびに生じる金属音、作業員たちの小さくくぐもった声――すべての音が混ざり合い、休む間もない連続音となって耳にまとわりつく。
その中に身を置くと、自分の声さえも埋没してしまうような気がした。
俺に与えられた役割は単純だった。
ベルトコンベアから流れてくる、まだ温もりを残した細長い生地。
それを素早く、正確に、ねじっていく。
ただそれだけの作業。
だが、始まって数分で、単純さの中に潜む過酷さがじわじわと牙を剥き始めた。
生地は絶え間なく、一定のリズムで流れてくる。
最初のうちは“来た、ねじる。
来た、ねじる。
”というサイクルを、頭の中で律儀に数えていた。
ベルトのエッジに生地が触れる、その白っぽい肌理のきめ細かさ。
手のひらに吸い付くような湿度と、冷えた工場内の空気に晒された生地のわずかな温もり。
ねじるとき、内側から湧き上がるグルテンの抵抗感。
手の甲から指先にかけて、微細な粉と油分がじわじわと染み込んでいく感覚。
鼻先には、焼かれる前の淡いパンの香りがただよい、時折、遠くから焦げた砂糖の匂いが流れてきて一瞬現実に引き戻される。
だが、やがて時間の感覚が鈍り始める。
生地の列は途切れず、ベルトの動きは機械的に正確で、どこか無慈悲だった。
その流れに逆らうことは許されない。
1本、2本、3本……数を数えることさえ無意味になる。
腕はじわじわと重くなり、指先の感覚がかすれる。
心拍が早まるたび、額には薄い汗がにじむ。
工場の冷たい空気の中で、汗はすぐに冷え、背筋にぞくりと走る。
生地をねじるたび、筋肉が小さく震え、肩の奥に鈍い痛みが広がっていく。
周囲を見れば、みな無言で作業に没頭している。
時折、誰かがため息をつく音が、ベルトのうなりに紛れて聞こえてくる。
作業服の袖どうしが擦れ合う音、ゴム手袋越しに生地をつかむ際の微かな音。
誰もが自分の作業にのみ集中し、目を合わせようとしない。
その沈黙は、どこか重く、逃げ場のない圧迫感となって空間を満たしていた。
繰り返される“生地が来る、ねじる”。
その単調なサイクルに、俺の意識は徐々に溶けていく。
腕を動かすたび、まるで自分が機械の一部になったような錯覚に陥った。
ふとした瞬間、俺が生地をねじっているのか、それとも生地に俺がねじられているのか、分からなくなる。
自分自身の存在が薄れていき、どこか遠い場所で誰かが俺の体を動かしているような、奇妙な浮遊感。
過去に感じたことのない、自己が消失していく感覚――“ここにいる”という確信が、徐々に曖昧になっていった。
6時間。
針の進みを何度も確かめても、時計はほとんど動かないように思えた。
生地の白さ、蛍光灯の青白い光、作業台の金属の冷たさ。
すべてが、俺の意識から色彩を奪っていく。
昼休憩のとき、パンの甘い香りに包まれた休憩室で、誰かが「また同じ作業だな」とぽつりと呟く。
その言葉に、みな苦笑いを浮かべるだけで返事はなかった。
俺は2週間、このサイクルに耐え続けた。
毎日、帰宅すると指先がじんじんと痺れ、夜はうなされるように眠った。
夢の中でも生地がベルトから流れてきて、俺はただただねじり続けていた。
ある日、隣のラインでアンパンのてっぺんにゴマを振るだけの作業をしていた男が、出勤から2日目にして姿を消した。
彼の作業台には、誰も手をつけていないアンパンがぽつんと並んでいた。
その光景は、パン工場という空間の静謐さと、そこに巣食う静かな絶望を象徴しているように見えた。
パン工場の空気は、甘さの奥にどこか苦味を隠している。
あの蛍光灯の下、ねじれ続ける時間の中で、自分がすり減っていく感覚――あれを味わう覚悟がないなら、どうかみんな、パン工場で働くのはやめておけ。
笑える話:薄明のパン工場、ねじれ続ける時間と消えていく自分――地方の短期バイト、終わらない生地の流れの中で
薄明のパン工場、ねじれ続ける時間と消えていく自分――地方の短期バイト、終わらない生地の流れの中で
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