笑える話:ねじれゆく時間の中で――パン工場、消えゆく僕の輪郭

ねじれゆく時間の中で――パン工場、消えゆく僕の輪郭

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朝靄が町を薄絹のように包み込む頃、僕は工場の門をくぐった。
眠りの残り香がまだ頭の内側に漂い、冷たい空気が頬を刺す。
地方都市の片隅、無機質なコンクリートの建物。
その内部には、パンの焼ける甘い匂いと、機械が織り成す単調なリズムが渦巻いていた。

 時給千三百円。
数字だけが、僕をここへ誘った。
けれど、扉の向こうに待っていたのは、想像もしなかった世界だった。

 僕の仕事は、流れてくる細長い生地をひたすらねじること。
コンベアの上を、湿った蛇のような生地が絶え間なく滑ってくる。
それを右手と左手で挟み、くるり、くるりとねじる。
最初は簡単な作業に見えた。
だが、機械は容赦なく、同じ速度で生地を送り続ける。

 生地が来る、ねじる――。

 生地が来る、ねじる――。

 生地が来る、ねじる――。

 単調な反復が、工場全体に響く。
機械の唸りと、同僚たちの無言の気配。
遠くで誰かが咳払いをした。
パンが焼き上がる香りの向こうで、時折、金属の擦れる甲高い音がした。
僕の指先には、次第に生地の冷たさが染み込んでいく。
それはやがて、僕自身の感覚を曖昧にしていった。

 ねじる、ねじる。

 いつの間にか、手の動きと意識が分離していく。
自分がこのパン生地をねじっているのか、それとも逆に、パン生地が僕の内側をゆっくりとねじっていくのか――わからなくなる瞬間があった。
機械のリズムに心まで巻き込まれて、僕はただの作業の一部になっていく。

 壁の時計が、時間の流れを告げる。
けれど、六時間という数字は、この空間では無意味だった。
時間はねじれて、溶けて、輪郭を失う。
ただ、指先の疲労だけが確かだった。
ふと隣を見ると、同じ作業服の青年が、無言で生地をねじり続けている。
その目は、どこか遠くを見ているようだった。

 ある日、休憩室で一人の若者が、紙コップのコーヒーを手にぽつりとつぶやいた。
「俺、もう無理だわ。
アンパンのゴマふるだけでも、心が折れる」彼は二日で去った。

 僕は二週間、ここにいた。
自分が透明になっていくような感覚。
工場の外に出ると、夕暮れの光が、どこか眩しくて切なかった。
茜色に染まる空を仰ぎながら、僕は自分の輪郭を確かめた。

 ――パン工場だけは、やめておけ。

 誰にともなく、心の中でそう呟いた。
ねじれた時間の奥で、僕はほんの少しだけ、世界の重さを知った気がした。
読了
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