切ない話:母の涙と、河原の陽だまり――五感で刻んだ貧しき日々の記憶

母の涙と、河原の陽だまり――五感で刻んだ貧しき日々の記憶

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父がこの世を去ったのは、私がまだ幼い、指で数えるほどの年齢の頃だった。
あの日の朝の、曇ったガラス窓越しに差し込む淡い冬の光と、部屋を満たす冷たい空気の重さ、そして母のすすり泣く声――それらは今も、胸の奥に静かに沈殿している。

 父の不在が、日常のあらゆる場所にぽっかりとした影を落とした。
家の中に、もう一つ分の椅子が、食卓の端に寂しく残されたまま。
その椅子の背もたれには、父のにおいが微かに残っていた。
母は、再婚することもなく、女手ひとつで私を育ててくれた。

 母は特別な学歴を持っていたわけではない。
手に職もなかった。
けれど、彼女は生きるために町の個人商店で何でも屋のように働いた。
レジ打ちから、商品の陳列、重たい米袋の配達まで、どんな仕事も選ばなかった。
冬の朝、まだ空気が霜でピリリと冷たい時間に、母は分厚いセーターの袖をまくり、指先を赤くしながら自転車を漕いでいた。
自転車のカゴには、出前のうどんや、配達用の新聞が積まれていることもあった。

 生活は、いつも綱渡りだった。
財布の中に残る小銭を数え、明日の米が買えるかどうかを気にする日々。
家の中に漂うのは、石油ストーブの匂いと、ほんのりと焦げた味噌汁の香り。
テレビの音は小さく、ラジオから流れる演歌が、時折寂しさを紛らわせてくれた。

 しかし、あの時代の町には、今はもう消えてしまった「人情」というものが確かに存在していた。
隣の八百屋のご夫婦は、売れ残った野菜をそっと紙袋に入れて持たせてくれた。
魚屋の大将は、私の肩をぽんと叩き、「母ちゃんによろしくな」と笑っていた。
町の空気は、決して豊かではなかったが、誰もが誰かを思いやり、質素ながらも温もりに満ちていた。

 娯楽というものは、私たちの生活とは無縁の、まるで遠い星の光のような存在だった。
テレビゲームや外食は夢物語。
せいぜい、近所の駄菓子屋で10円のラムネを買うのが、日常のちょっとした贅沢だった。

 そんな生活でも、日曜日だけは特別だった。
母が台所で朝早くからご飯を炊き、おにぎりを握る音が、寝床まで聞こえてくる。
梅干しや塩昆布を具にした、素朴なおにぎり。
卵焼きは、少し焦げ目がついていて、母の手の温もりがそのまま伝わってくるようだった。
台所に立つ母の背中は、どこか嬉しそうで、私もその背中を見ると、胸がふわりと温かくなった。

 母と私は、弁当を入れた風呂敷を手に、並んで歩いて河原へ向かった。
春には菜の花が揺れ、夏には蝉の声が川辺を満たす。
秋風が吹く頃には、草が黄金色に染まり、冬の乾いた空気の中では、川面に光がきらきらと舞っていた。
土手の斜面を降りて、草の上に腰を下ろすと、母は風呂敷を広げ、手作りの弁当を私の前にそっと置いた。

 青空はどこまでも高く、雲の切れ間から降り注ぐ光が、母の髪にやさしく降りかかる。
おにぎりをかじると、ほのかな塩味と米の甘みが口いっぱいに広がる。
風がそよぎ、草の匂いが鼻をくすぐる。
遠くで聞こえる子どもたちの歓声や、川のせせらぎが、私たちの静けさを包み込む。

 給料日後の日曜日になると、母は少しだけ贅沢をして、町のパン屋でクリームパンを一つ、そして瓶入りのコーラを買ってきてくれた。
袋から取り出されたクリームパンは、ふわふわで、手のひらにのせるとほんのり温かい。
ひと口かじれば、とろりとした甘いクリームが舌の上でとろけ、砂糖の香りが鼻腔をくすぐる。
キンと冷えたコーラを飲むと、炭酸が喉を刺激し、体の奥にまで染みわたる。
私にとって、それはまさに“贅沢”の象徴だった。
母の目も、そんな私を見て、少しだけ誇らしげに細められていた。

 そんなある日、母が職場から帰宅すると、珍しく興奮した様子で私の前に小さな封筒を差し出した。
少し照れたように「これ、もらったんだけど……」と口ごもる母。
その手には、プロ野球の観戦チケットが二枚握られていた。
普段は無口な母が、言葉にしなくても、顔全体が嬉しさと誇らしさで輝いていた。

 その日が近づくと、母はいつもより早起きし、朝から台所でそわそわと動き回った。
唐揚げを揚げる音が台所から聞こえ、油の香りが家中に広がる。
卵焼きはふんわりと黄色く、ソーセージは包丁で花の形に切られていた。
その丁寧な手つきに、母の特別な思いがにじんでいた。
私は、まだ見ぬ野球場を思い描きながら、胸の高鳴りを抑えきれなかった。

 迎えた当日。
電車に揺られ、母と並んで座るシートの冷たさ、窓の外を流れる町並み。
駅を降りると、球場に向かう人々の波ができていた。
賑やかな人混み、遠くから聞こえてくる応援歌、売店の呼び声。
球場の外観は想像よりも大きく、青々とした芝生が、目の前に広がっていた。
空気は少し湿っていて、グラウンドの土や芝の匂いが鼻を突いた。
胸が高鳴り、足元が少し浮き立つような感覚。
母もまた、どこか緊張した面持ちで、私の手をぎゅっと握っていた。

 しかし、運命は皮肉だった。
いざ入場しようとチケットを係員に差し出した瞬間、彼の無表情な声が私たちを現実に引き戻した。
「これは優待券ですので、入場料がそれぞれ千円かかります」――その一言が、空気を一気に冷たくした。
母は財布を開いて中を確かめたが、そこには帰りの電車賃と、ほんの少しの小銭しか残っていなかった。
母の肩がほんの少し落ちるのが見えた。
私は、何も言えず、ただ母の横顔を見つめていた。

 「……帰ろっか」
 母の声は、いつもより小さく、どこか震えていた。
私は黙ってうなずくしかなかった。

 球場の外のベンチに腰かけると、母はゆっくりと弁当を広げた。
遠くから球場の歓声が風に乗って聞こえてくる。
どこか取り残されたような、世界から切り離されたような静けさ。
母は無理に笑顔を作っていたが、その目の奥には、拭いきれない寂しさが浮かんでいた。
私は空気が壊れるのが怖くて、少し強がって「楽しかったね」と言った。
喉がひどく渇いて、声がかすれていた。

 母は、その言葉に一瞬だけ箸を止め、俯いたまま小さくつぶやいた。

 「母ちゃん……バカで、ごめんね」
 その声はかすれ、小さな震えが混じっていた。
母の目には、涙がきらりと光っていた。
その涙が、私の心の奥深くに鋭く突き刺さった。

 子どもの私にも、その瞬間「悔しい」という感情が胸を締めつけて離さなかった。
貧しさ、無知、どうしようもない現実――それらが母を泣かせたのだ。
その事実が、私の中に消せない痛みとして刻み込まれた。

 それからというもの、私はがむしゃらに勉強し始めた。
あの日の母の涙に、ただ負けたくなかったからだ。
夜遅くまで机に向かい、眠気と戦いながら教科書を開いた。
鉛筆を握る手が時折震え、まぶたが重くなるたび、脳裏にあの日のベンチと母の涙がよみがえった。

 新聞奨学生として大学に進学し、社会に出て働き始めた。
慣れないスーツの窮屈さ、通勤電車の人いきれ、職場の緊張感。
何をするにも不安と期待が入り交じり、鼓動が速くなるのを感じた。
それでも、私は前へ進むことをやめなかった。
やがて結婚し、母に初孫を抱かせることもできた。
母は多くを語らず、ただ孫の小さな手を握り、目を細めていた。
その表情は、私が知る限りで一番穏やかだった。

 しかし、時は流れ、母は昨年の暮れに亡くなった。
入院生活の中で、母が目を覚ます時間はだんだんと少なくなっていった。
ある日の午後、病室の窓越しに冬の淡い陽射しが差し込む中、母はふと目を開け、枕元を見つめてかすかにつぶやいた。

 「野球……ごめんね……」
 その声は遠く、まるで昔の記憶から浮かび上がってきたようだった。
あの日のことを、母は何十年も心の奥底にしまい続けていたのかもしれない。

 本当は「楽しかったよ」と言いたかった。
あの日の弁当も、母の涙も、私にはかけがえのない思い出だった。
けれど、胸が詰まって、涙が溢れて、どうしても言葉にならなかった。

 母のことは、今もずっと私の誇りだ。
手作りの弁当、クリームパン、そしてあの日の涙。
少しだけ豪華だった“野球観戦用”のお弁当も、全てが私の心に深く刻まれている。

 ありがとう、お母さん。
あの時、球場の外のベンチで食べたお弁当。
私は今でも、あの温もりと味を、鮮明に覚えている。
あれは、私にとって世界で一番温かい野球観戦だったのだ。
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