幼い頃、私は父を亡くしました。
それ以来、母は再婚することなく、女手ひとつで私を育ててくれたのです。
学歴も、特別な技術もなかった母は、近所の個人商店で雑務や配達の仕事をして、私たちの暮らしを支えてくれました。
毎日は、本当に必死だったように思います。
それでも、当時の町には人情があって、質素ながらも何とか生きていくことができました。
娯楽なんて、私たちにとっては夢のまた夢でしたが、それでも小さな楽しみはありました。
日曜日になると、母は手作りのお弁当を用意してくれて、一緒に近所の河原に出かけたものです。
青空の下、草の上に座っておにぎりを頬張る時間が、何よりの幸せでした。
そして、給料日後の日曜日には、母がこっそり買ってくれたクリームパンとコーラが、私にとって最高のごちそうでした。
甘くて冷たいその味は、子どもだった私にとって“贅沢”の象徴だったのです。
そんなある日、母が勤め先の方からプロ野球の観戦チケットを2枚もらってきました。
「行ってみるか?」と、少し照れくさそうに言う母の顔には、期待と誇らしさがあふれていたように思います。
母はその日のために、いつもより少し豪華なお弁当を作ってくれました。
唐揚げに卵焼き、ソーセージも花の形に切ってあって、いつも以上に特別でした。
初めて訪れる野球場。
大勢の人の波や響きわたる歓声、真新しい芝生。
胸が高鳴るのを感じていました。
ところが――
いざ入場しようとチケットを見せた瞬間、係員の方に止められてしまいました。
もらったのは“優待券”で、無料で入れる“招待券”ではなかったのです。
一人1000円ずつの入場料が必要だと言われました。
母の財布には、帰りの電車賃くらいしか残っていませんでした。
「……帰ろっか」
母のその言葉に、私はうなずくことしかできませんでした。
球場の外のベンチに二人で腰かけ、お弁当を広げて食べました。
球場から聞こえてくる歓声が、風に乗って私たちのもとに届きました。
母は笑顔を作っていましたが、どこか寂しそうでした。
私はその空気を壊したくなくて、食べながら「楽しかったね」と少し強がって言いました。
すると母は、箸を止めてぽつりと言いました。
「母ちゃん……バカで、ごめんね」
その目には、小さな涙が浮かんでいたのです。
その涙が、私にはたまらなく感じられました。
子どもながら、「悔しい」という感情が胸を締めつけました。
貧しさや、無学であることが、母を泣かせてしまった――そんな現実が、心の奥に深く突き刺さったのです。
それから、私はがむしゃらに勉強しました。
あの日の涙に、どうしても負けたくなかったのです。
新聞奨学生として大学に進学し、社会に出て仕事を覚え、結婚して、母に初孫を抱かせることもできました。
母は静かに喜んでくれました。
多くを語る人ではありませんでしたが、孫の手を握る母の表情は、何よりも穏やかでした。
そんな母が、昨年の暮れに亡くなりました。
入院生活の中で、次第に意識を失う時間が増えていきましたが、ある日、ふと目を覚ました母が、思い出したように小さくつぶやきました。
「野球……ごめんね……」
何十年も前の、あのたった一度の出来事を、母はずっと心のどこかに抱えていたのかもしれません。
私は「楽しかったよ」と伝えたかった。
本当の気持ちを、ちゃんと伝えたかったのです。
けれど、その言葉はどうしても声になりませんでした。
胸が詰まって、涙が溢れて、何も言えなかったのでした。
私は、今でも母のことをずっと誇りに思っています。
手作りのお弁当と、クリームパンと、あの日の涙。
そして、あの時見せてくれた“少しだけ豪華なお弁当”。
すべてが、私の心に深く刻まれています。
ありがとう、お母さん。
あの時、外のベンチで一緒に食べたお弁当、私はちゃんと覚えています。
あれは、私にとって世界で一番温かい野球観戦だったのです。
切ない話:母と過ごした温かな日々と、忘れられない野球観戦
母と過ごした温かな日々と、忘れられない野球観戦
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