母子の絆と無意識的な補償行動―貧困体験が形成する自己概念の心理分析

本事例は、幼少期に父を喪失し、母子家庭で育った主人公とその母親の行動・感情を、深層心理学的観点から分析する。

まず観察されるのは、「母が再婚せず、女手一つで子を育てた」という行動である。
ここには、母親自身の「安定型愛着」の傾向と同時に、父性の喪失を補うための「補償行動」が見られる。
母の必死な生計維持は、社会的役割を果たすことで自己効力感を維持しようとする無意識的動機、すなわち「昇華」という防衛機制によって説明できる。

一方、主人公の記憶に残る「手作り弁当」「クリームパンとコーラ」といった具体的な経験には、「貧困体験の中でも肯定的な意味づけ」を行う認知的再評価が働いている。
これは「認知的不協和」の軽減策として、限られた幸福を最大限に価値づける心理的プロセスである。

母親がプロ野球のチケットを手に入れ、「少しだけ豪華な弁当」を作る場面では、母の自己価値の確認と、子どもへの「投影同一視」が見られる。
母は自分の限界を自覚しつつも、子どもの喜びを通して自身の肯定感を補おうとする。
ここには「合理化」の防衛機制も働き、「豪華な弁当」や「イベントへの参加」を通じて、自分たち親子も“普通の家庭”と同じであるという社会的スキーマに適応しようとする努力が伺える。

しかし球場で「優待券が使えず入場できない」という出来事は、母子の現実的な貧困と社会的制約を強く意識させる「象徴的な挫折体験」である。
この時、母は「母ちゃん……バカで、ごめんね」と謝罪するが、これは「退行」や「自己非難」という防衛機制の表れであり、母は自らの無力感・劣等感を子どもに伝えながらも、関係性の安定を図ろうとする。
子ども側も、「楽しかったね」と強がる発言は、「親を傷つけたくない」という共感的配慮から生じる「感情抑圧」と「自己犠牲」の傾向が見られる。

この体験をきっかけに、主人公は「がむしゃらに勉強した」と記述されている。
ここには「劣等コンプレックスに対する補償行動」としての昇華が顕著である。
母の涙という「象徴的なトラウマ」が、自己形成の原動力となり、学業や社会的成功への動機付けとなった。
「新聞奨学生」「結婚」「初孫」などの達成は、母親への「恩返し」や「自己効力感の回復」を無意識的に目指す行動である。

母が晩年、意識が薄れる中で「野球……ごめんね……」とつぶやく場面には、「未解消の罪悪感」と「記憶の再演」が見られる。
母親は何十年も前の挫折体験を無意識のうちに抱え続け、それが晩年の意識混濁時にも表出したと考えられる。
これは「抑圧された感情の回帰」や「未完結な親子間の感情的やりとり（未解決の転移）」の一例である。

一方、主人公は「本当の気持ちを伝えられなかった」ことに対して、「胸が詰まって涙が溢れた」と記している。
これは「感情表出の困難さ」や「親への過剰な配慮」が長年にわたり内面化されていたことを示唆する。
愛着理論的には、親子間の「安全基地」の機能は果たされていたが、同時に「過度な自己抑制」や「自己犠牲的傾向」も形成されていた可能性がある。

最終的に、主人公は「母のことはずっと誇りです」と語る。
この自己語りは、トラウマ的体験を「意味づけし直す」ことで、自らのアイデンティティ統合と心理的成長を達成していることを示す。
母の手作り弁当や涙といった象徴的記憶は、主人公の「自己スキーマ」の核に位置づけられ、その後の人生の価値観や対人関係形成に深い影響を与えている。

この物語は、喪失や貧困といった逆境体験が、防衛機制や補償行動、認知的再評価を通じて、個人の成長やアイデンティティ形成にどのように寄与するかを示す好例である。
また、親子間の未解決感情が、世代を超えて影響を残す「感情の伝達」現象も観察できる。
人間の心理は、表層行動の背後に複雑な動機や感情が絡み合いながら、自己理解と他者理解の営みを続けていることが、本事例から理解できる。