僕が深夜のコンビニで働いていたのは、今から数年前のことだ。
家から自転車で20分、ペダルを漕ぐたびに郊外の静けさが濃くなっていく。
道端の街灯はぽつりぽつりと頼りなく、夜露に濡れたアスファルトに、僕の影が細く歪んで伸びていくのが見える。
コンビニは駅から遠く、住宅街の外れにぽつんと建っていた。
昼間は通学路の子供や散歩の老人が行き交うが、夜になると、まるで世界から切り離されたように静まり返る。
深夜の店内には、蛍光灯の冷たい白が棚の隅々まで染みわたり、機械的なBGMと冷蔵庫の低い唸り声だけが、絶えず微かに響いていた。
この仕事の何よりの魅力は、深夜の静寂だった。
客足は少なく、時間の流れは粘性を帯びてゆっくりと進む。
僕は缶コーヒーの微かな甘い香りと、新しく入荷したおにぎりの包装フィルムのパリパリとした手触りを感じながら、淡々と品出しに集中できた。
冷蔵庫の扉を開け閉めする度、ひやりとした空気が肌を撫で、眠気を追い払ってくれる。
ときおりレジ横のフライヤーからは、油の熱気とわずかな焦げた匂いが漂ってきて、僕の胃を刺激した。
外は時折、風がガラス戸を揺らし、遠くで猫の鳴き声がこだまする。
それらはすべて、僕にとっては心地よい夜のBGMだった。
しかし、ある晩から状況が変わり始めた。
ふとガラス戸越しに外を見やると、街灯の下に、ぼんやりと黒い影が沈んでいるのに気がついた。
最初は通りすがりの誰かかと思ったが、影は動かず、ただじっと店の方を見ているようだった。
年齢も性別もわからない。
街灯の光が届かないせいで、顔も輪郭も判然としない。
ただ、深夜の底冷えする空気の中で、そこだけ闇が濃く集まっているように感じられた。
それからというもの、影は毎晩のように現れた。
午前2時を過ぎた頃、ふいに気配を感じて外を見ると、必ずあの黒い影が店の周囲をゆっくりと歩いている。
足音は聞こえない。
だが、ガラス越しにじっと見つめられている気がして、背筋が粟立った。
僕は最初、万引きを狙う不審者の下見かと考えた。
だから、品出しの手を止めて、物音を立てないように注意を払い、万が一に備えて防犯ブザーの位置を確かめた。
けれど、どれだけ見張っても、そいつが店に入ってくることはなかった。
そんなある夜、いつもより早く妙な違和感に襲われた。
深夜1時、外は静まり返り、冷蔵庫の低い振動音と、時折棚の隙間から漏れる微かな風切り音だけが店内を満たしていた。
客がいないのはいつものことだが、この夜は空気がどこか重苦しく、肌にまとわりつくような湿度があった。
まるで、何かがこの空間全体をじわじわと締め付けているような感覚。
普段なら心地よい孤独が、今夜ばかりは得体の知れない不安に変わっていく。
ふと、背後の事務所――バックヤードの方から、ごく微かな物音がした。
段ボールが擦れるような、何かが床を引きずるような音。
僕の心臓が急に早鐘を打ち始め、喉がカラカラに乾いた。
従業員専用の出入り口にそっと近づき、耳を澄ませる。
ドアの向こうから、低くかすれた声が聞こえた。
誰かが何かを呟いている――男か女か、それすら分からない。
それでも、その声には妙な執着と焦燥が滲んでいた。
僕は何度も深呼吸し、震える手でドアノブをそっと回す。
倉庫の中は暗く、蛍光灯の切れかけた明かりが、段ボールの山に不気味な影を落としていた。
冷たいコンクリートの床の感触が靴底から伝わり、背中にじっとりと汗が滲む。
そこで僕は、ようやく「アイツ」の姿をはっきりと目にすることになった。
闇の中で、猫背に丸まった黒い影が、段ボールの隙間を探るように這い回っている。
全身が煤にまみれたように黒く、輪郭はぼやけ、何より異様なのは――首から上が、ない。
そこからは血が滴り、床に暗い染みを作っている。
僕の足はその場に根が生えたように動かなくなり、冷たい汗が額を伝う。
声は低く、苦しげに途切れ途切れに響いた。
――ない……ない……
その言葉は、空間の奥底から滲み出すように、じわじわと僕の鼓膜を侵食してくる。
ただの言葉なのに、聞くたびに胃の奥が冷たく締め付けられるような不快感を覚えた。
「アイツ」は、ダンボールの山をかき分けながら、何かを必死に探している。
だが、僕には何を探しているのか、皆目見当もつかない。
ただ、その背中からは絶望と焦燥が染み出していた。
突然、その黒い影が動きを止めた。
ゆっくりと、首のないその胴体がこちらを向く気配がする。
血だらけの切断面から、何かが僕を探しているのか――見えていないのに、強烈な視線を感じた。
――顔は……どこだ……
その声は、明確に僕を求めていた。
僕はパニックに陥り、体が勝手に動いた。
手探りで壁のスイッチを押し、眩い光が一気に倉庫を満たす。
その瞬間、黒い影は一瞬だけ揺らいだ。
僕は振り返ることもできず、店内へと転がるように逃げ出した。
心臓は破裂しそうなほど高鳴り、呼吸は荒れ、喉はますます渇いていく。
冷蔵庫の冷気も、もはや僕の汗ばんだ体には届かなかった。
それ以来、僕はあの店で働くことができなくなった。
辞めた後も、夜道を歩くと、背後からじっとりとした視線を感じるようになった。
窓の外、物陰、街灯の下――どこにも、あの黒い影がちらつく。
家の周りをうろつく気配、夜中に耳元で響くあの不気味な声。
――ない……ない……
それは、夢の中にも現れた。
目を閉じると、あのすすけた黒い猫背と、血の滴る胴体が暗闇の奥からじっとこちらを見つめている。
恐怖は日を追うごとに深く、僕の生活に浸食していった。
何度も窓の鍵を確かめ、布団の中で耳を塞いでも、あの声だけは消えてくれなかった。
今でも、時折あの声がどこからともなく響いてくる。
顔を失った「アイツ」のうめき声は、一体どこから、どんな方法で僕に届いているのだろうか。
僕は今も、その答えを知るのが恐ろしいまま、薄暗い夜の底で身を縮めている。
仕事・学校の話:闇夜に現れる「顔のない影」――静かなコンビニで始まる恐怖と余韻の物語
闇夜に現れる「顔のない影」――静かなコンビニで始まる恐怖と余韻の物語
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