仕事・学校の話:夜の背に寄り添う影――あるコンビニ夜勤者の記憶

夜の背に寄り添う影――あるコンビニ夜勤者の記憶

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夜はすべての音を吸い込んで、静寂だけを残した。
駅から遠く離れたそのコンビニは、まるで世界から切り離された小さな島のように、ぽつりと街の隅に灯りをともしていた。
私は自転車で二十分、ただ暗い道を走り続けてこの島へ渡る。
ペダルを踏む足が冷え、冬の空気が頬を刺すたび、なぜ自分はこんな場所で夜を生きているのか、時折わからなくなることがあった。

 けれど、深夜の仕事は不思議と私の心を落ち着かせた。
ほとんど客の来ない無人の海。
私は棚に商品を並べながら、機械のような安心感に身を委ねていた。
コンビニの蛍光灯が、白く無機質な光で床を照らし、品出しの音だけが静けさを切り裂いていく。

 しかし、ある夜のことだった。
私はガラス戸の向こうに、曖昧な黒い影が漂うのを見た。
ひと気のない歩道、街路樹の陰に、何かが潜んでいる。
誰なのか、若いのか老いたのかも判然としない。
それは黒い水煙のように輪郭を持たず、ただ夜気に溶けていた。

 「また、あれか……」

 私は心の中で独りごちる。
万引きか、あるいはただの酔っ払いか。
警戒心が胸の奥で小さな炎を灯し、私はいつもより慎重に品出しを続けた。
だが、その影がただの人間ではないことに、私はまだ気づいていなかった。

 *

 ある晩、私はいつものように店へ出勤した。
店内は相変わらず人気がなく、冷えきった空気が漂っている。
だが、その夜だけは何かが違った。
扉を開けた瞬間、背骨に細く冷たいものが這い上がる感覚があった。
違和感、それは言葉にならない不穏な予感だった。

 私はバックヤードの扉をそっと開く。
普段なら外にいるはずの「アイツ」が、今夜はなぜか倉庫の奥にいる。
薄暗い蛍光灯の下、段ボール箱が乱雑に積み上げられ、その隙間を探るように、黒い猫背の影がうごめいていた。

 すすにまみれたような黒ずんだ背中。
人間のものとは思えぬ、いびつな輪郭。
気配が濃く、私は足元の冷たい床に縫いとめられたように動けなくなった。

 「……ない、……ない……」

 その声は、まるで古いテープが擦り切れるように、かすかに空気を震わせる。
低く、湿った呻き。
何を探しているのか、影は段ボールの山をひっかきまわしていた。
私は息を潜め、心臓の鼓動が耳の中で爆ぜるのを感じていた。

 ふいに、その黒い猫背が動きを止める。
ゆっくりと、こちらを向こうとしている。
私は恐怖に縛られ、逃げ出したいのに足が床に根を張ってしまう。

 「顔は……どこだ……」

 その言葉が、底なしの井戸のように私の内側へ染み込んでいった。
影の首から上は、血に濡れた空洞だった。
顔のない“何か”が、闇を引きずりながら、私に向かって忍び寄る。
その瞬間、指が勝手に動いて店の電灯をつけた。
白い光が影を切り裂き、私は振り返ることもできずに、ただ店内へと駆け出した。

 *

 その夜を境に、私はもう二度とあの店へ戻らなかった。
辞表を出す手は震え、理由を訊かれてもまともに答えられなかった。
だが、安堵は一瞬だった。
今度は、私の家の周囲に、あの黒い影が現れるようになったのだ。

 夜更け、窓の外からかすかに響いてくる。

 「……ない、……ない……」

 呻き声が風とともに部屋へ忍び込む。
そのたび、胃の奥が冷たい鉛で満たされたように重くなる。
顔のない「アイツ」の声は、どこからともなく、私の耳に、心臓に、染み込んでくる。
私は今も、夜の帳が降りるたび、あの問いを反芻する。

 ――顔は、どこだ――

 夜の背に寄り添う影は、いまだ私の人生から消え去っていない。
読了
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