あれは、私がまだ小学校の低学年だった頃のこと。
今となっては遥か昔の記憶だが、その日だけは、色褪せることなく鮮やかに蘇る。
季節は晩秋。
朝の冷たい空気が肌を刺し、駅のホームにはかすかに鉄と油の匂いが漂っていた。
私の手は母の温かな掌に包まれていた。
母の手は、冬の始まりを告げる空気の冷たさから私を守る盾のようだった。
私たちは、遠縁の親戚を訪ねるため、見知らぬ町の駅にいた。
ホームには、朝の光が斜めに差し込み、鉄道のレールが鈍く輝いていた。
人々の足音がコンクリートに響き、アナウンスが幾重にも重なり合って空間を満たしていた。
ホームは人で溢れ、駅弁の匂い、コートに染みついた香水、誰かの持つ新聞のインクの香りが混じり合い、私の嗅覚を刺激していた。
人々のざわめきは、どこか遠い世界のことのようだった。
私は、色とりどりの電車たちに心を奪われていた。
赤や青、黄色、時には銀色に輝く車体が、次々と目の前を横切っていく。
車体の光沢は、朝日を反射して瞬き、そのたびに私の心は高揚感で満たされた。
母の手を握る力がふと緩んだ。
その瞬間、私は吸い寄せられるように母の手を離してしまった。
小さな手がふいに自由を得た時、私は自分が人混みの流れに呑み込まれていくのを感じた。
大人たちの足の間をすり抜ける度、私の視点はどんどん低くなり、世界が巨大なものへと変わっていった。
母の姿は、あっという間に人波の向こうへ小さくなっていった。
彼女の焦った表情や、私を呼ぶ声がどこか遠くで響いているように思えたが、不思議なほど私は冷静だった。
恐怖も、寂しさも、その時の私の心には一切浮かんでこなかった。
ただ、風が頬を撫でる感覚や、見知らぬ大人たちのコートの布地が私の腕に触れる感触だけが、妙にはっきりと残っていた。
気づけば私は、黄色い安全線の真上に立っていた。
線の内側と外側で、空気の重さがまるで違うように感じられた。
線の外には危険が、内側には安全がある——子供心にそう信じていた。
私はぼんやりと反対側のプラットホームを見つめていた。
そこに、小柄な女性と、その足元に寄り添うように立つ小さな女の子がいた。
二人は互いに手を握り合い、まるで世界に二人しかいないかのように、静かに微笑み合っていた。
女性は、淡い水色のコートを身にまとい、少し大きめの襟が首元を包んでいた。
そのコートは、冬の光を受けて柔らかく光っていた。
女の子は、小さな手でコートの裾を握っている。
二人の間に流れる空気は、他の誰とも違う、特別なものに感じられた。
見知らぬはずの親子なのに、私はどうしようもなく懐かしさを覚えた。
喉の奥がきゅっと締め付けられるような、不思議な感覚だった。
その時、白と青のストライプの電車が、遠くから滑るように近づいてきた。
車体がホームに差し掛かると、まるで絵画の中の一場面が幕を引かれるように、親子の姿が消えてしまうはずだった。
しかし、その瞬間、私の目の前で世界がねじれた。
電車が親子の姿を遮った瞬間、白と青のコントラストが一瞬、煙のようにふわりと広がり、辺りの空気が揺らいだ。
私は目を疑った。
電車の車体は、次第に透明になり、車内の乗客たちの輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
まるで重力からも解放されているかのように、乗客たちはふわりと宙に浮いて見えた。
その場にいる誰もが、異変に気付いていないようだった。
駅のアナウンスは相変わらず流れ続け、ホームの床には微かな振動が伝わってきた。
ドアが開く音だけが鮮明に響き渡り、金属のきしみと空気が圧縮される音が私の耳を打った。
周囲の人々がざわめきながら動き出す中、私はただ茫然とその光景を見つめていた。
ふと気付くと、さっきまで反対側にいた親子が、電車に乗り込もうとしていた。
女の子が、私の方をちらりと見た。
その瞬間、電車がぐん、と音もなく私の方へ横滑りしてきた。
電車は本来、レールの上をまっすぐ進むものなのに、そのときだけは、重力も物理法則も関係ないかのように、真横に近づいてきた。
私は黄色い安全線の上で固まったまま、電車との距離がみるみる縮まっていくのを感じていた。
息が止まり、心臓が喉元で跳ねる。
血の気がさっと引き、指先が冷たくなった。
何より私を驚かせたのは、女の子の顔だった。
その瞳は、私自身のものと瓜二つだったのだ。
黒目がちで、どこか寂しげな光を湛えていた。
さらに彼女は、私がかつて通っていた幼稚園の制服を着ていた。
胸元に飾られたバッジ、スカートの折り目、袖口に施された白いレース。
どれも見覚えのあるものだった。
彼女の頬には、私と同じ位置に小さなほくろがあり、その口元には微かな微笑みが浮かんでいた。
まるで私を慰めるかのように。
次の瞬間、電車は何事もなかったように発車し、車体の振動とともに現実が戻ってきた。
私はその場に立ち尽くし、冷たい空気の中で自分の呼吸が白く曇るのを見ていた。
その時、背後から母の呼ぶ声が聞こえ、強く抱きしめられた。
母の胸に顔を埋めると、彼女の服に染み付いた柔軟剤の匂いと、わずかな涙ぐんだ声の震えが伝わってきた。
私は、ようやく現実に引き戻された。
その後も、私は時折あの出来事を思い返す。
母を見失った不安と寂しさから、私は白昼夢を見ていたのかもしれない——そう自分に言い聞かせることもあった。
しかし、思い出そうとするたび、胸の奥にじわりと広がる恐怖がある。
それは、あの少女の服が確かに私の幼稚園の制服であり、私と全く同じ場所にほくろがあり、あのとき微笑みかけてくれたことを、私は決して忘れることができないからだ。
あの駅のホームの空気、朝の光、母の手の温もり、電車の透明な幻影。
すべてが今も私の五感に刻み付けられている。
現実と幻の境界が溶け合ったあの日、私は確かにもう一人の自分と出会い、そして何か大切なものを置き去りにしてきたのだと思う。
不思議な話:幼い記憶の駅で溶ける現実と幻影――手の温もりと喪失、すべての感覚が交錯する白昼夢
幼い記憶の駅で溶ける現実と幻影――手の温もりと喪失、すべての感覚が交錯する白昼夢
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