曇りがちの春の朝、オフィス街の古びたビルの一室。
私が新卒で入社したこの会社の執務室は、どこか昭和の名残を色濃く残していた。
淡いグレーのカーペットは少し毛羽立ち、窓際には観葉植物が無造作に置かれている。
蛍光灯の白い光が天井から降り注ぎ、書類の山を照らしていた。
その光はやや冷たく、午前の静けさと相まって、空気に緊張の膜を張る。
外線電話は、この島型デスクの一番端、私の席のすぐ隣にぽつんと置かれていた。
艶消しの黒い樹脂製受話器は、何度も拭かれてきたはずなのに、どこか古びた脂の匂いを残している。
受話器の隙間から微かに埃っぽい匂いが漂い、電話自体の重みが、この会社の歴史を語っているようだった。
暗黙の了解で「外線電話は新人が取るもの」と決まっていて、他の社員たちの机には内線専用の白い電話が鎮座している。
内線からは、ときおり誰かが短く話す声や、押し殺した笑い声が漏れ聞こえてくる。
けれど外線の電話だけは、島でただ一台。
まるで外の世界と会社とをつなぐ唯一の窓のように、静かにそこにあった。
その朝も、私はいつものように細かな緊張感を胸に、デスクに座っていた。
コーヒーの香りが遠くから漂い、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。
ふと、電話の呼び出し音が部屋の静寂を切り裂いた。
機械的で少し甲高いベルの音が、オフィス全体に反響し、私の鼓動が一瞬だけ高鳴る。
「はい、○○(会社名)でございます」
受話器を取ると、耳にあてた瞬間に、何かが違うと感じた。
電話の向こう側は不自然なほど静かだった。
耳に押し当てた受話器からは、相手の息遣いも、背景の雑音も伝わってこない。
沈黙が、まるで重たい雨雲のように押し寄せてくる。
私は少し戸惑いながらも、もう一度、今度は少し声を張って「○○でございます」と名乗った。
その瞬間、微かに「……あっ」と、どこかで聞き覚えのある声が漏れたかと思うと、ぷつん、と電話が切れる音が響いた。
受話器を戻す手のひらには、じっとりと汗が滲んでいる。
唇が乾き、無言の電話の余韻が耳の奥に残る。
これは――イタズラ電話だろうか、いや、どこかで聞いたような声だった気もする。
胸の奥に小さな疑問の種が残ったまま、私は机に視線を戻した。
だが、そのときふと、島の反対側に座る中年の男性社員、私と同じ部署のおじさんが、普段とは違う妙なそわそわ感を漂わせているのに気づいた。
彼はいつもなら落ち着いた表情で書類をめくるのだが、今日はなぜか目線を合わさず、落ち着きなく指先で机をトントンと叩いている。
額のあたりにうっすらと汗が滲み、呼吸もどこか浅い。
その態度に、周囲の先輩たちも徐々に異変を感じ始めた。
「あれ、今の無言電話……」誰かが小さな声で囁くと、別の先輩がクスクスと笑いをこらえきれずに肩を震わせた。
やがて、みんなの視線が一斉にそのおじさんへと向けられる。
空気が一瞬にして変わる。
おじさんは観念したように小さく肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
そう、あの無言電話の正体は、この部署のおじさんだったのだ。
なぜそんなことを? 理由を問いただすと、おじさんは「ちょっと外線の掛け方を間違えちゃってさ……」と、バツの悪そうな表情で釈明した。
しかし、その後先輩たちから「せめて間違えても無言で切らないでくださいよ!」と総ツッコミを受け、室内は一気に和やかな笑いに包まれた。
その日からしばらくの間、外線電話が鳴るたび、みんなが冗談めかしておじさんの様子をうかがうのが定番となった。
オフィスの朝の空気には、あの無言電話の残響が、どこかくすぐったい余韻として漂い続けていた。
新人としての緊張と、仲間たちの温かいユーモア。
あの外線電話のベル音が響くたび、私はこの場所で少しずつ社会人としての一歩を踏み出していることを実感したのだった。
仕事・学校の話:誰もいないはずの外線電話と、静寂を破る“無言”の正体——新卒一年目、オフィスの朝に起きた一幕
誰もいないはずの外線電話と、静寂を破る“無言”の正体——新卒一年目、オフィスの朝に起きた一幕
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