朝靄がガラス窓を淡く曇らせ、始業前のオフィスにはまだ人の気配が薄かった。
新卒として入社して間もない私の一日は、外線電話のベルの音から始まることが多かった。
外界と島をつなぐその黒電話は、部署の隅にひっそりと置かれ、島の新人だけがそれを受け取る役目を担わされていた。
他の社員の机には、無機質な内線電話がそれぞれの持ち場を守るように佇んでいたが、外の世界と直結するのは、私ひとりだけに与えられた小さな権利であり、また義務でもあった。
その朝も、私はデスクに流れ込む微かな朝日の中で、コーヒーの苦味を舌に残しながら、機械的に外線のベルを取った。
「――○○でございます」
誰もいない空間に、私の声がさざ波のように広がる。
だが、受話器の向こうからは、ただ沈黙だけが返ってきた。
その沈黙は、電話線を伝って私の耳の奥にまで染み入り、まるで時間が凍りついたかのような静けさをもたらした。
もう一度、やや強い調子で名乗ると、かすかな吐息が混じった「あっ……」という声が、まるで窓の外を通り過ぎる春風のように微かに届き、そして、ぷつりと通話は途切れた。
私は受話器を静かに置き、眉根を寄せる。
イタズラだろうか。
だが、その声の響きには、どこか既視感があった。
記憶の奥底で、何かが小さく軋む。
あれは、誰の声だったのか――。
オフィスの空気は、ゆっくりと動き始める。
清掃員がフロアを横切り、コピー機が静かに唸りを上げる。
私はふと、斜向かいのデスクに視線を送った。
そこには、同じ部署の中年の男性――通称「おじさん」が、妙に落ち着かない様子で座っていた。
彼の分厚い眼鏡の奥の瞳が、しきりにこちらを窺っている。
指先は机の端をせわしく叩き、その動きはどこか不自然だ。
私は胸の奥に浮かぶ違和感を、静かに言葉にしてみる。
「まさか、あの人……?」
その直後、先輩たちが次々と出社してきた。
私が何気なく「さっき、無言電話があったんですよ」と告げると、室内の空気が一瞬止まる。
数人の視線が、あの「おじさん」へと集まる。
彼は目を逸らし、咳払いをひとつ。
「おじさん、もしかして……間違えた?」
先輩のひとりが、半ば確信したように問いかけた。
「いや、あの……ちょっと……」
おじさんは言いよどみ、やがて自嘲気味に笑った。
その瞬間、オフィスは笑いに包まれた。
春の名残が残る空間に、和やかな笑い声が渦を巻く。
それは、厳格で単調な日常に、ほのかな色彩を落とす出来事だった。
「でもさ、間違えたからって無言で切っちゃダメですよ」
「そうですよ、せめて一言……」
先輩たちの明るい声に、おじさんは肩をすくめた。
私はほっとしつつも、どこか胸の奥でくすぐったいものを感じていた。
人は誰しも、間違いを恐れる。
けれども、その恐れが、たった一言の勇気を遠ざけてしまうこともあるのだ。
それからしばらく、外線に無言電話がかかってくるたび、私はそっとおじさんを確認する癖がついた。
たとえ、受話器の向こうがどんな沈黙に包まれていようとも、その沈黙の奥には、誰かの小さな戸惑いと、名もなき優しさがひっそりと息づいているのかもしれない。
仕事・学校の話:薄明のオフィス、無言の向こうに
薄明のオフィス、無言の向こうに
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