あれはまだ私が社会人として駆け出しだった頃、ガラス張りの自動ドア越しに朝の陽射しが差し込む、ビルの一角にある小さな受付での出来事でした。
季節は初夏。
外から流れ込む空気には、ほんのりと街路樹の青葉の香りと、コーヒーショップから漂う焙煎豆の匂いが混ざり合い、受付スペースに独特の静けさと温もりを与えていました。
壁際には観葉植物が控えめに佇み、陽の光を浴びて葉先を輝かせている。
カウンターの向こう、正面には白木のテーブルがあり、その向こう側に深緑色のビニール張りの椅子が二脚、きちんと並べて置かれていました。
床は磨かれたタイルで、歩くたびに小さな音が響き、空気の緊張感を微かに増幅させます。
その日、私は制服のベストのボタンを指先で確かめながら、少しだけ汗ばんだ手のひらを膝の上でそっと拭いました。
午前の来客ピークが一段落し、ふと肩の力を抜いたその瞬間、エントランスの自動ドアが「ウィーン」と静かな機械音を立てて開きました。
反射的に背筋を伸ばし、微笑みを浮かべてカウンターの向こうを見やると、スーツ姿の中年男性が一歩、また一歩と受付に近づいてきます。
靴音がタイルにパリッと響き、緊張と期待が瞬時に空間を満たすのを感じました。
「いらっしゃいませ」——私の声は、少しだけ高く、控えめに響きました。
お客様が軽く会釈しながら受付台の前に立ったとき、ふとその顔にうっすらと汗が滲んでいるのが目に留まりました。
遠方から歩いてこられたのか、あるいは緊張していらっしゃるのか。
その微かな表情の揺らぎを読み取りながら、私は丁寧に「どうぞおかけになってお待ちください」と言葉を添え、手をテーブル奥の椅子へと向けてそっと差し伸べました。
指先が空気を切り、ほんの少し湿度を感じさせる空間に、丁寧な案内の仕草が滑り込みます。
ところがその瞬間、ほんの一瞬の間——その方の動きが、私の予想とはまるで異なる軌道を描きはじめました。
男性は、私の指し示す椅子には目もくれず、足元を確かめることなく、後ろ歩きでテーブルの前まで進むと、まるでそこに椅子があるかのように、勢いよく腰を下ろしたのです。
その動作は、ゆっくりとしたスローモーションのように私の目に焼きつきました。
彼のスーツのジャケットがふわりと広がり、空気がわずかに揺れる——次の瞬間、「ドスン」という鈍い音とともに、彼は無造作にテーブルの天板に腰掛けてしまったのです。
その光景はどこか滑稽で、悲喜劇の一幕のようでした。
テーブルは、椅子に比べて明らかに高く、表面は堅く冷たい白木。
彼の体重がのしかかると、テーブルの脚がきしむような小さな音を立てました。
私はその瞬間、思わず息を呑みました。
受付の奥にいた同僚も、思わず顔を伏せて肩を小刻みに揺らしています。
笑いをこらえきれず、唇を強く噛み締める私。
喉の奥がカラカラと乾き、鼓動が一際大きく耳に響きました。
お客様は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、周囲を見渡しました。
テーブルと椅子の距離感を誤った自分の行動に気づいたその刹那、顔にほんのり赤みが差し、視線が泳ぎます。
その目の奥には「やってしまった」という戸惑いと、早くこの場を収めたいという焦りが交錯していました。
私は心の奥で、彼のプライドを傷つけないよう、極力自然な表情を保とうと必死でした。
内心では、若さゆえの無邪気な笑い声が今にも溢れ出しそうで、体中の筋肉が小さく震えています。
「失礼いたします、こちらの椅子にどうぞ」と、私はできる限り穏やかな声で促しました。
声のトーンはいつもより柔らかく、わずかに震えが混じっていたかもしれません。
男性は苦笑いを浮かべながら、そっとテーブルから腰を下ろし、今度は正しく椅子へと腰掛けました。
その仕草にもどこかぎこちなさが残り、場の空気は一瞬だけ重く、そしてすぐに和やかなものへと変わっていきました。
受付の空間には、今しがたまで張り詰めていた緊張の糸が、ほんの少し解けていく余韻が漂っていました。
窓辺の観葉植物が、そよ風に小さく揺れています。
私はふと、あのときの自分の未熟さと、お客様の可愛らしい失敗とが溶け合った、あの一瞬の空気の柔らかさを思い出し、今でも自然と口元がほころびます。
記憶の中で、あの日の光と影、音と匂い、肌を撫でる空気の感触までもが生き生きと蘇るのです。
このささやかな出来事は、私にとって受付という場所の持つ人間らしい温かさと、思いがけないハプニングがもたらす小さな幸せを、今もなお鮮やかに思い出させてくれるのです。
仕事・学校の話:受付カウンター越しの小さなハプニング——記憶に刻まれた微笑ましい一瞬の全景
受付カウンター越しの小さなハプニング——記憶に刻まれた微笑ましい一瞬の全景
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