仕事・学校の話:春の光の中、テーブルに降りた影――受付で出会った小さな奇跡

春の光の中、テーブルに降りた影――受付で出会った小さな奇跡

📚 小説 に変換して表示中
春、まだ朝の冷気が残る受付カウンターの向こう側で、私は淡い陽射しに包まれていた。
ガラス越しの街路樹には、新芽がひそやかな命の鼓動を宿している。
遠くから微かに聞こえる車の走行音、控えめな靴音が、日常の静けさをやさしく奏でていた。

 その朝も私は、決まりきったように椅子を整え、カウンターの端に手を添えて訪問者を待っていた。
窓の外に目をやると、空はまだ白く曇り、一日の始まりを慎ましやかに祝福しているようだった。

 やがて、オフィスの扉が静かに開き、ひとりの初老の紳士が現れた。
スーツの袖口は少し擦り切れていて、それがかえって彼の人生の厚みを感じさせた。
私は一歩前に出る。

「おはようございます。
どうぞ、おかけになってお待ちください」

 いつもの言葉を、心持ち柔らかい声で告げる。
私は、テーブルの向こうに設えた椅子を、そっと手で示した。
彼は一瞬、私の瞳を見つめ返し、軽く会釈をしてから歩き出した。

 その瞬間だった。
彼はまるで夢遊病者のように、ふらりと後ろ歩きにテーブルへ近づくと、何の躊躇もなく、どっかりと腰を下ろした。
椅子ではなく、木のテーブルの上に。

 時が止まったような静寂。
空気が、ふっと硬直する。
私の隣にいた同僚の指先が、小刻みに震えている。
私は必死に唇を噛み、笑いを堪えた。
心の奥で、思いがけない滑稽が泡立ち始める――だが、それを表に出すわけにはいかない。

 テーブルの表面は、冬の余韻を残して冷たかっただろう。
彼は、ほんの一瞬、何かに違和感を覚えたような顔をしたが、すぐに気を取り直し、すました表情で座り続けていた。
たぶん、背後に椅子があると信じていたのだろう。
無防備なその姿が、どこか愛おしかった。

「こちらが椅子でございます」

 私は、やわらかく声をかける。
彼は我に返ったように目を瞬かせ、はにかみながら立ち上がった。
照れ隠しに咳払いをし、今度こそ正しい椅子へと腰を下ろす。
その仕草には、どこか少年のような可愛らしさがあった。

 その後、何事もなかったかのように手続きを進めたが、心の内側では、小さな春風がそっと吹いていた。
私たちは、あの一瞬の間抜けな出来事を、二度と口にすることはなかった。
だが、今でもふとした瞬間に、あの光景が心のスクリーンに浮かぶ。
テーブルの上に降り立った彼の影、そして、それを見守りながら必死に微笑みをこらえた自分自身。

 人間の可笑しみと温かさが、あの日の陽射しのように、私の胸にそっと染み込んでいる。
読了
スワイプして関連記事へ
0%
ホーム
更新順
ランダム
変換
音読
リスト
保存
続きを読む

コメント

まだコメントがありません。最初のコメントを投稿してみませんか?

記事要約(300文字)

ダミー1にテキストを変換しています...

0%
変換中