午前中の湿った空気に包まれながら、私たちは売り出し中の古い家へと向かっていた。
車のフロントガラス越しに差し込む曇りがかった陽光は、まるでこの家の過去を隠すかのように淡くぼやけている。
ナビの案内音や、相方の緊張をほぐすような小さな独り言も、次第に無言へと沈んでいった。
目的地が近づくにつれ、心の奥底にじわりと冷たいものが広がる。
私たちの仕事は内装の修復。
外壁はすでに他の職人たちが整え終え、私たちが手を入れるべきは、この家の内側――つまり、人々の記憶や時間が染み込んだ場所だった。
車を降りると、足元の土はほんのりと湿り気を帯びており、誰もいないはずの家からは、見えない視線のような重苦しい気配が漂っていた。
ドアを開けたとき、古い家特有の埃っぽく甘酸っぱい匂いが鼻をつく。
目の前には、所々剥離した壁紙と、色褪せた床板が無言で並ぶ廊下。
窓から差し込む光は細く、埃の粒を浮かび上がらせ、空中に漂うその微粒子が、過去の記憶を静かに揺らしているようだった。
靴音が、がらんとした空間に乾いた反響を返す。
私たちは互いに無言で頷き合い、さっそく作業に取りかかった。
廊下を進みながら壁に手を触れると、経年で荒れた漆喰のざらつきが指先に残る。
そのとき、ふと足元に転がる小さなものに気づいた。
くすんだ赤色のクレヨン。
わずかに折れ曲がったその形状は、何度も子どもの手に握られた証拠だろう。
無意識に、以前ここで暮らしていた家族の姿を想像する。
壁の落書き、廊下を駆け回る小さな足音、そして親子の笑い声。
しかし、その温かな想像も、この家の静寂と薄暗さの中では、どこか遠い幻のように感じられた。
気を取り直し、さらに家の奥へと進む。
階段の手前にも、同じ色のクレヨンがひとつ無造作に転がっている。
なぜだろう。
子どもが落としたにしては、不自然なほど等間隔に配置されているように見えた。
その違和感が、胸の奥で小さな警鐘を鳴らす。
やがて、作業の段取りを確認し合いながら、私と相方は手分けして部屋の調査に入った。
私は一階の部屋をひとつひとつ開け、傷んだ床や壁の状態を記録する。
扉のきしみや、床板のわずかな沈み込みが、不安の種をさらに増幅させる。
一方で、二階を任された相方の足音が、階段の上から時折微かに聞こえてきていた。
だが、その足音が突然、慌ただしいリズムに変わった。
続いて、バタバタと階段を駆け下りる音。
振り向くと、相方の顔が真っ青になっていた。
息を切らせ、額には玉のような汗。
目を見開いたまま、彼は震える声で叫んだ。
「やばい、やばいよ……!」
その声のトーンには、理屈を超えた恐怖が滲んでいた。
話を聞くと、二階の薄暗い部屋にも同じ赤いクレヨンが落ちており、しかもその隣に、小さな女の子が黙って立っていたという。
光の当たらない部屋の奥、誰もいないはずの空間で、その子は無表情のまま相方を見上げていた。
声をかけようとした瞬間、彼女はすっと空気に溶けるように消えてしまったそうだ。
私は思わず喉が渇き、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
足元がぐらぐらと不安定に揺れる。
理屈では説明できない恐怖が、頭の奥でじわじわ広がっていく。
息苦しいほどの静けさ。
耳を澄ませば、自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
「とにかく、外に出よう」と相方が小声で促す。
私たちは今来た廊下を戻ろうとするが、ふと、壁の一部に妙な違和感を覚えた。
そこだけ、他の部分と質感が異なり、等間隔の溝が入っている。
光をあてると、壁紙の下のラインが不自然に浮き上がり、何かを隠しているとしか思えなかった。
「ここ…変だな」と相方が壁をノックする。
乾いた音が返ってくるが、他の部分に比べて明らかに軽い。
「薄い……」と相方は呟き、私は無言で頷いた。
内装工事の予定もあったので、壁のヒビが入った部分を慎重に剥がしてみることにした。
ヘラを差し込むと、古い壁紙は思いのほか簡単にはがれ、ベニヤ板がむき出しになる。
その奥には、壁より奥まった位置に、ドアノブのない小さな扉が現れた。
取っ手があったはずの部分は、小さな板で乱雑に塞がれている。
まるで、何かを封じ込めるために急ごしらえで作られたようだ。
扉は壁の内側10センチほど奥にあり、手で押してもびくともしない。
冷たい空気が、わずかな隙間からじわりと漏れてくる。
私たちは無言で目を合わせ、互いの鼓動が一瞬シンクロする。
「せーの!」という合図と共に、二度目の強い蹴りを繰り出した。
バンッという鈍い音とともに扉が弾け飛び、奥から淀んだ空気が一気に流れ出す。
その空気は、埃とカビと、何か鉄のような生臭さを含んでおり、思わず顔を背けたくなるほどだった。
「……クレヨンだ。
」
相方の声は、乾ききった喉を無理やり絞り出したかのように低く響いた。
私が覗き込むと、階段下の狭い物置のような小部屋の壁一面には、赤いクレヨンで何かがびっしりと書き込まれていた。
文字の形は乱れ、時に激しく、時に幼い手つきで書かれた痕跡が残る。
言葉にならない呻きや、助けを求める声が、そこに生々しく刻みつけられているように感じた。
かすかな風が家の奥から吹き抜けると、壁のクレヨン文字が一瞬だけ光に揺らぎ、私たちの心に深い余韻と戦慄を残した。
誰もいなくなったはずのこの家が、いまもなお、何かを訴え続けている――そんな予感が、静かに、しかし確実に私たちを包み込んでいた。
仕事・学校の話:取り残された家の静寂と、赤いクレヨンが刻む恐怖の記憶
取り残された家の静寂と、赤いクレヨンが刻む恐怖の記憶
🔬 超詳細 に変換して表示中
読了
スワイプして関連記事へ
0%
記事要約(300文字)
ダミー1にテキストを変換しています...
0%
変換中
コメント