仕事・学校の話:赤いクレヨンの残響――廃屋にひそむ影の記憶

赤いクレヨンの残響――廃屋にひそむ影の記憶

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朝の光が、まだ薄暗い住宅街をおぼろげに照らしていた。
六月の湿り気を含んだ空気が、静かに肌を撫でる。
私は相方の高橋とともに、売り出し中の古い家へと向かっていた。
外装はすでに他の業者の手で修復されており、今日からは内装の作業が私たちの担当となる。

 現場に到着した時、家はひっそりと沈黙していた。
どこか遠くでカラスの鳴く声が響き、空気は重たく、湿った埃と古い木材の匂いが鼻先をかすめる。

 玄関のドアを開けると、微かにきしむ音がした。
足を踏み入れると、壁紙は色あせ、床板は所々たわんでいた。
壁に走るヒビは、まるで屋敷の記憶が表出したかのように見える。
私は無意識に指先でその裂け目をなぞる。

 廊下を進むうち、ふと目に留まった。
床に、一本のクレヨンが転がっている。
赤――子供の手のひらほどの短さだ。
誰のものだろう。
ここに住んでいた家族の、幼い子どもの残したものだろうか。
私はそれを拾い上げ、しばし掌の上で転がした。
クレヨンの表面には、かすかな爪痕が刻まれていた。

 階段の下にも、同じ色のクレヨンが落ちているのに気づく。
なぜ、こんなところに? 疑問を胸に押しとどめ、私は高橋と手分けして作業にかかることにした。

 時折、木材の軋む音が耳に残る。
私は一階の部屋の窓を開け放ち、空気を入れ替えながら、壁のヒビを確認していった。

 突然、二階から足音が駆け下りてくる。
振り返ると、高橋が蒼白な顔で階段を下りてきた。

「……やばい、やばいよ!」
 彼は呟くように言った。
その声は、まるで何かに怯えているようだった。

 私は問いかける。

「何があった?」
 高橋は息を整えながら続ける。

「二階の部屋にも、クレヨンが落ちてたんだ。
それだけじゃない――小さな女の子が、部屋の隅に立ってた。
声をかけようとしたら、すっと消えたんだよ」

 言葉の裏に、説明しきれない恐怖が滲んでいた。
私は背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
心の奥底で、何かがざわめく。
幽霊なんて信じていないはずなのに、理屈で割り切れぬ不安が、じわじわと広がっていく。

 とにかく外に出ようと、私は廊下に戻った。
すると、不意に壁の一部に違和感を覚えた。
そこだけ、白い壁紙がわずかに波打ち、等間隔に浅い溝が刻まれている。
高橋は無言で壁を指先で叩いた。

「……薄い」
 彼の声が、妙に遠く響いた。

 この壁は、他の部分よりも明らかに新しい。
内装工事でどうせ張り替える予定だった私は、ヒビの入った壁紙を慎重に剥がした。
パリパリと乾いた音が室内にこだまする。

 すると現れたのは、ベニヤ板の裏側に隠された、取っ手のない扉だった。
取っ手が付いていたであろう部分を、小さな板が不自然に塞いでいる。
扉は壁よりも十センチほど奥まっていた。

 私は手のひらで押してみたが、びくとも動かない。
高橋と目を合わせ、無言で頷き合う。
呼吸を合わせて、私はつま先で扉を蹴りつけた。
「せーの!」二度目の蹴りで、扉は鈍い音を立てて開いた。

 奥から、むっとする淀んだ空気が溢れ出す。
埃と、どこか鉄錆びたような、忘れ去られた記憶の匂いが私の鼻先を刺した。

 高橋が、かすれた声で呟く。

「……クレヨンだ」

 そこは階段下の小さな物置部屋のようだった。
だが、その壁一面には、赤いクレヨンで無数の文字がびっしりと書き込まれていた。
何が記されているのかは、すぐには読み取れない。
ただ、そこに込められた思いだけが、圧倒的な存在感で私たちに迫ってくる。

 あの消えた少女――彼女の残した叫びなのか。
私の胸の奥で、重く鈍い何かが蠢き始めていた。

 外では、いつの間にか雨が降り始めていた。
しずくが屋根を打つ音が、私たちの沈黙と呼応するように、静かに家全体を包み込んでいた。
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