感動する話:春霞の祝歌――兄と娘と、ひとつ屋根の下の物語

春霞の祝歌――兄と娘と、ひとつ屋根の下の物語

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朝、窓のカーテンの隙間から、淡い春の光が部屋を満たしていた。
遠くで雀が鳴いている。
私は鏡の前でネクタイを締め直しながら、ふと昔の記憶に指を滑らせるような気持ちになる。
この数十年、友人の隣で歩んできた道のり。
その彼の娘の結婚式へと向かう朝だった。

 人混みの中、式場のロビーに立つ。
白い蘭の香りが、どこかしら懐かしさと緊張を混ぜて鼻腔をくすぐる。
軽やかなウェディングマーチの調べが遠くから流れてきた。
私は、胸の奥に微かな痛みを覚えながら、友人――雅人の姿を探した。
彼は、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出している。
すでに祝福の装いをまとい、しかしどこか、決意と諦念の混じった表情をしていた。

 私たちは高校からの友人だ。
三十年という歳月が、互いの髪を白くし、言葉の端々に重みを与えた。
私は雅人の「娘」――佳奈子が歩む花道を、他人事とは思えなかった。
けれど、その物語の奥底には、今もなお他人には言えぬ秘密が沈んでいる。

 ***

 二十一歳の初夏、雅人は両親を突然の事故で失った。
あの朝、私は彼の震える声を電話越しに聞いた。
茜色の空に、絶望だけが浮かんでいた。
彼の傍らには、まだ幼い佳奈子――妹がいた。

「俺が……この子を育てる」

 小さな声だった。
だが、彼の目は、翳りの奥で燃えていた。
私は反対した。
二十一歳で、片親として生きていくことの重さを、私は知っているつもりだった。
母親の不在を、どう説明するのか。
戸籍の壁はどうするのか。
だが雅人は、親戚を頼ることも、祖父母に預けることも、頑なに拒んだ。
――「妹の笑顔が、俺を支えてくれた。
自分の幸せなんて、二の次でいいんだ」

 その言葉を聞いたとき、私は何も言えなかった。
言葉が、唇の裏で溶けてゆく。
ただ、「頑張れ」と呟くしかなかった。

 ***

 時は流れた。
雅人は、朝も夜もなく働き、家事と育児に追われていた。
私は時折、彼のもとを訪ねた。
部屋には、子供の描いた絵と、料理の匂いと、静かな忍耐が漂っていた。

「何か手伝えることはないか?」

 私の問いに、雅人は微笑むだけだった。
彼の背中には、若さの影は消え、代わりに静かな強さがにじんでいた。
酒を酌み交わしながら、私たちはいつも同じ昔話を繰り返した。
だが、心の奥には、言い出せない思いが燻っていた。

 佳奈子は、兄を父と信じて疑わないように見えた。
彼女の瞳は澄んでいて、家族の温もりをそのまま映し出していた。
私は、彼女が本当のことを知っているのかどうか、確かめる勇気を持てなかった。
雅人も、その話を一度も口にしなかった。

 桜が舞い、季節が巡るたびに、佳奈子は成長した。
彼女の笑顔は、春の陽射しのように、雅人の疲れを溶かしていった。

 ***

 そして今日。
祝福の光の中、佳奈子がヴェールをまとい、花道を歩む。
私は雅人の隣に座り、彼の指が小さく震えているのに気づいた。

「お父さん、今まで本当にありがとう」

 佳奈子の声が、式場の静寂をやさしく満たす。
涙が頬を伝う。
だが、その次の瞬間、彼女は言った。

「お兄ちゃん」

 場内がざわめいた。
私は、言葉にならぬ驚きと、胸の奥で何かが崩れる音を感じた。
佳奈子は、すべてを知っていたのだ。
高校生のとき、書斎で見つけた日記で、自分が「妹」であることを知ったという。

「私は、お兄ちゃんの人生を狂わせてしまった。
本当に、ごめんなさい」

 彼女の声は、涙に濡れて震えていた。
私は、息を呑んだ。
雅人は静かに頭を振った。

「違うよ。
お前が、こんなに大きく育ってくれた。
それだけで、十分だ」

 短い沈黙。
やがて、式場は大きな拍手に包まれた。
私は涙が止まらなかった。
祝福の音が、川の流れのように会場を満たしていく。
春の光が、窓から差し込んだ。

 ***

 夜、古びた居酒屋のカウンターで、雅人と肩を並べた。
焼き鳥の煙が、どこか懐かしい夜の匂いを漂わせる。

「泣くなよ、お前まで」雅人は、照れくさそうに笑った。
けれど、その目にはまた涙が滲んでいた。

「もう、十分だよな」

 彼はグラスを掲げた。
私は、ただ黙って頷いた。
ガラス越しの夜風が、春の余韻を運んでくる。

「次は、孫が生まれるのが楽しみだ」

 彼の言葉に、新しい希望の光が宿った気がした。
人生は、思いがけない岐路の連続だ。
それでも、人は大切な誰かと肩を並べ、歩いていく。
春の夜、私は静かにグラスを傾けた。
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