新しい街、新しい部屋、新しい朝。
引っ越しの荷ほどきもまだ終わらない段ボールがリビングの隅に積み上げられ、窓から差し込む初夏の光は、見慣れぬ家具や壁紙の色を柔らかく照らしていた。
埃っぽい空気と、どこか見知らぬ場所特有の微かな樟脳の匂いが鼻をかすめる。
遠くからは、通りを歩く人々の足音や、自転車のブレーキ音、時折響く子供の笑い声が混じり合い、まだ自分がこの場所の住人になりきれていないことを思い出させる。
そんな慌ただしい日々の中、初めて自宅の固定電話の留守電ランプが点滅していることに気づいたのは、夕暮れどき、部屋が茜色に染まり始めた頃だった。
ふとした不安――知らない土地での新生活に対する警戒心が、胸の奥で小さく波打つ。
受話器を手に取り、再生ボタンを押すと、機械的なビープ音の後、まるで遠い異国の市場のような、ザワザワとした人の話し声や足音が背景に流れ始めた。
聞き慣れぬ雑踏の響きが、今いる静かな部屋と奇妙な対比をなす。
その喧騒に紛れて、低くくぐもった女性の声が、まるで暗い井戸の底から響いてくるかのように再生される。
「……あーあ、嫌だ嫌だ……やることいっぱいあるのに……なんで私ばっかり……」
言葉の切れ端は、まるで重い石を水面に落とした時のように、胸の内に沈んでいった。
声の主は、どこか諦めと苛立ちが混じり合ったような響きで、誰に向けるわけでもなく、ひたすら自分自身の愚痴を吐き出していた。
その一語一語が、まるでこちらに向けられているかのように感じられ、思わず背筋がぞわりとした。
部屋の空気が、急に重く粘ついたものに変わった気がした。
手のひらにはじわりと汗が滲み、心臓の鼓動が耳の奥で強く打ち始める。
留守電の声が途切れると、再び静寂が部屋を満たし、その静けさがかえって不気味に感じられた。
数日おきに、同じようなメッセージが入るようになった。
決まって、背景にはザワザワとした雑踏の音、そしてあの暗いトーンの女性の独り言。
私は、電話が鳴るたびに、言いようのない不安と緊張に包まれた。
もしや自分の知らないところで何かが起こっているのではないか――そんな妄想が頭をよぎる。
だが、当時はナンバーディスプレイすら普及しておらず、発信元を辿る術もない。
ただただ、見えない誰かの鬱屈とした声を、受け身で聞き続けるしかなかったのだ。
夜になると、その声が耳に蘇る。
暗闇の中、窓の外の街灯が淡く壁に影を落とす。
あの女性は、どんな場所で、どんな顔をしてこの言葉を発していたのだろう。
苛立ち、疲れ、諦め――それらが滲む声の奥に、私はなぜか言いようのない哀しみを感じた。
その感情は、私の新生活への期待や高揚感に、うっすらとした陰りを落とした。
やがて、ある日。
電話の着信ランプが点滅しているのを見つけた時、私はまたあの声だろうと身構えながら再生ボタンを押した。
しかし、流れてきたのは全く異なる声だった。
落ち着いた、事務的な女性の声が、静かにこう告げた。
「こちら○○コールセンターの者です。
先日、間違ってそちら様の留守電にメッセージを吹き込んでしまいました。
大変申し訳ございません。
」
その瞬間、胸の奥に張り詰めていた緊張が、ふっと解けるのを感じた。
まるで濃い霧が晴れるように、事態の全貌が見えてきた気がした。
おそらく、どこかのコールセンターのオペレーターが、仕事の合間に、知らず知らずのうちにうちの留守電に電話をかけ、独り言を漏らしてしまったのだろう。
雑踏の音も、オフィスの喧騒だったのだと今なら分かる。
だが、謎が解けた安堵の後、私はふと複雑な感情に襲われた。
あの低く、恨みがましい声を思い出すと、ただの間違い電話で片付けてしまうにはあまりにも生々しかった。
電話の向こう側で、誰かが一人きりで抱える苦しみや苛立ちを、私はほんの少しだけ垣間見てしまったのだ。
新しい部屋の白い壁に、夕暮れの橙色がまだ残っている。
窓の隙間からは、夏の湿気を含んだ重い風がゆっくりと流れ込む。
私は留守電のメッセージを思い返しながら、見知らぬ誰かの日常の影が、自分の生活の片隅に静かに忍び込んでいたことに、奇妙な恐ろしさと、そしてほんの少しの哀れみを感じた。
留守電のメッセージはもう入らなくなったが、あの声の響きは、これからもふとした瞬間に私の記憶の奥底で、静かに反響し続けるのだろう。
怖い話:引っ越し直後、留守電に響く女の声と知られざる日常の影――新居に潜む不安と不可解なメッセージ、その先に浮かび上がる他者の人生
引っ越し直後、留守電に響く女の声と知られざる日常の影――新居に潜む不安と不可解なメッセージ、その先に浮かび上がる他者の人生
🔬 超詳細 に変換して表示中
読了
スワイプして関連記事へ
0%
記事要約(300文字)
ダミー1にテキストを変換しています...
0%
変換中
コメント