引っ越しを終えたばかりの六月の午後、私はまだ見慣れぬ部屋の窓辺で、遠くを走る車の音に耳を澄ませていた。
カーテンの隙間から射し込む柔らかな光が、箱の山を淡く照らしている。
新しい生活には、どこかうっすらとした期待と、不安が入り混じっていた。
最初の奇妙な留守番電話が入ったのは、そんなある晩のことだった。
携帯電話がまだ珍しかった時代。
私は外出から戻ると、据え置きの電話機に小さな赤いランプが灯っているのに気づいた。
それは、誰かからの伝言があることを無言で告げていた。
ボタンを押す指先が、ほんの少しだけ震えているのを自覚する。
――ザワザワとした雑踏のような音が、スピーカー越しに流れ始めた。
遠くで人々がささやき、何かがぶつかるような微かな物音。
まるで駅のホームに立ち尽くしているかのような錯覚を覚える。
「……あーあ、嫌だ嫌だ……やることいっぱいあるのに……なんで私ばっかり……」
低く沈んだ女性の声が、部屋の空気をしんと冷やす。
その声には、重たい憂鬱と、誰にも向けられない苛立ちが滲んでいた。
独り言が途切れると、伝言は唐突に切れる。
しばし私は、受話器の向こうに広がる見知らぬ世界を想像していた。
それから幾日かの間、同じような伝言が、数日に一度、律儀に届いた。
私は新居の静寂のなかで、次第にその声を待つようになっていたのかもしれない。
恐怖とも、不思議な親しみともつかぬ感情が、胸の奥でゆっくりと育っていった。
電話番号表示機能が一般に広まる前のことだ。
私はただ受け身で、赤いランプが灯るたびに、またあの声が聞こえるのではないかと、無意味な緊張に襲われるだけだった。
ある夕暮れ、窓の外で燕が低く舞うのを眺めていたとき、またしても留守電が入った。
けれど、今度は違う声だった。
「こちら、○○コールセンターの者です。
先日、誤ってそちら様の留守電に吹き込んでしまいました。
深くお詫び申し上げます」
機械的に抑揚のない声。
伝言はあっけなく終わり、部屋には再び沈黙が戻る。
私は、しばらく何も考えられなかった。
その瞬間、謎がひとつ解かれたような、けれどどこか物足りなさを感じる。
――彼女は、きっとどこかの雑多なオフィスで、息苦しいほどの仕事に追われていたのだろう。
電話口で、思わず溢れた愚痴。
誰かにぶつけることもできず、ただ空気に溶かすしかない悲しみと怒り。
謎は解決したはずなのに、あの声を思い出すたび、私は薄い恐怖と、どこか哀れにも似た感情を抱かずにはいられなかった。
留守番電話に残された彼女の影は、私の新しい部屋の隅に、そっと居座り続けているような気がした。
窓の外では、夜が静かに降りてくる。
遠くで、また何かがささやくような気がした。
怖い話:留守番電話に残る影――引越し先で聴いた夜のざわめき
留守番電話に残る影――引越し先で聴いた夜のざわめき
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