恋愛の話:すれ違いの夜に残された光と影 ― 仕事に生きたふたりの愛の終章

すれ違いの夜に残された光と影 ― 仕事に生きたふたりの愛の終章

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オフィスの窓から差し込む夕暮れの柔らかな光が、私たちの机の間に長く細い影を落としていた。
蛍光灯の白い光と外のオレンジ色が混じり合うその場所で、私は彼と初めて目を合わせ、ふとした瞬間に同じ資料に手を伸ばした。
その触れ合いは一瞬、指先にかすかな温もりと、紙の乾いたざらつきを残した。

彼の声は低く、しかし芯のある響きを帯びていた。
会議室で語られる仕事への情熱は、時に空気を震わせ、周囲の雑音をかき消すほどだった。
私の胸の奥もまた、彼の言葉を聞くたびに熱を帯び、まだ見ぬ未来への期待で苦しくなった。

私たちは、互いの仕事に対する熱意に強く惹かれ合った。
息を詰めて資料を読み込む夜、キーボードを叩く音が響く静寂、頬を伝う冷たい空調の風。
そのすべてが、ふたりで築く新しい日々の予感に包まれていた。

付き合い始めて数カ月、彼のアパートに私の荷物が少しずつ増えていった。
カーテンに差し込む朝日、コーヒーの香り、まだ慣れないベッドの軋む音。
二人分の食器、玄関に並ぶ靴。
いつしか私たちは、将来を語り合うよりも、当たり前に隣にいることに安堵を覚えるようになっていた。
結婚が現実味を帯び始めたのは、そんな穏やかな時間の積み重ねのなかだった。

だが、私たちの生活の中心には、どこまでも仕事があった。

彼はキャリアの大きな転機を迎えていた。
プロジェクトの責任者となったばかりで、日々の会議や資料作りに追われ、帰宅は深夜に及ぶこともしばしばだった。
私は私で、新しい部署でのプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、仕事こそが自分のすべてだと信じていた。
でも、夜のリビングにひとり座っていると、遠くで時計の針が刻む音だけがやけに大きく聞こえ、空気が冷たく身体を包み込む。

彼のいない部屋に漂う、シャツと香水の微かな残り香。
玄関のドアが開く音を待つうちに、無意識に呼吸が浅くなっていく。

「これが、自立した大人の恋愛なのだ」と自分に言い聞かせていた。
けれど、心の奥では、ただ隣にいてほしいという幼い願いが膨らんでいくのを止められなかった。

それでも私は、彼の帰宅を告げる足音、ドアノブの回る音に耳を澄ませ続けていた。

ある夜、テレビの光だけが部屋を照らすなか、私は彼の帰りを待ちながら、何度も時計を見た。
指先が冷たく、マグカップの温もりを何度も確かめた。

「大丈夫。
私も仕事が一番なのだから」
そう思い込もうとするたび、胸の奥に鈍い痛みが走った。

やがて、寂しさは理屈を超えて心を侵食する。
触れたくても触れられない、言いたくても言えない言葉が、喉元で絡まる。

ついに、私は彼に問いかけてしまった。

「ねえ、仕事と私、どっちが大切なの?」
その瞬間、部屋の空気がぴんと張り詰めた。
彼は一瞬だけ目を伏せ、やがて静かに私を見つめ返した。

「……夕紀のことは、本当に大切だよ。
だけど、今は仕事を手放せない」
彼の声は少し掠れていて、いつもの自信に満ちた響きがなかった。
沈黙の重さが二人の間に横たわり、冷たい夜の空気が皮膚にじんわりと沁みた。

私はわかっていた。
彼の中で仕事は、過去の挫折や夢、家族への想い、すべてを背負ったものだったことを。
けれど、その瞬間の私は、ただ「私だけを見てほしい」と願う弱さに飲み込まれていた。

鼓動が速くなり、視界の端がぼやける。
涙を堪えて唇を噛んだ。

二人の歴史が、一瞬で音もなく崩れていく気がした。

別れを選んだ夜、彼は私の肩にそっと手を置いた。
手のひらの温もりが、最後の優しさのように感じられた。

「ごめん」
それだけ呟くと、彼は静かに玄関のドアを閉めた。

残された私は、しばらくその場から動けなかった。

部屋の壁に映るふたつの影は、次第にひとつへと溶けていった。

数日後、引っ越しの荷造りを始める。
段ボールの中に詰め込まれていく思い出たち。
彼と選んだカップ、二人で撮った写真、笑いながら作った料理の匂いが、脳裏に蘇る。

何もない部屋に、私ひとりがぽつんと立っていた。

床の冷たさが足の裏から全身へと広がり、窓の外には灰色の雲がゆっくり流れていた。

静寂の中、カーテンが揺れる音だけが耳に残る。

私はその場にしゃがみこみ、堪えていた涙が頬を伝って零れ落ちた。

部屋の空気は重く、過去の幸せだけがそこに残っているようだった。

今思えば、彼の仕事への想い、人生への覚悟を、私はどれほど理解できていたのだろう。
あの夜の問いかけが、どれほど彼を追い詰めたのか。
未熟だった自分を抱きしめるように、私はそっと目を閉じる。

そして、あの部屋で過ごした日々の温度や、彼の声の響き、ふたりの愛が確かにあったことを、静かに心の奥に刻み込んだ。
読了
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