恋愛の話:夕暮れの部屋、彼と私を隔てた静かな距離

夕暮れの部屋、彼と私を隔てた静かな距離

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朝靄に包まれた街を、私は早足で歩いていた。
冬の空気は冷たく、吐く息は白く曇る。
駅前のカフェのガラス越しに、彼の姿を見つけたのは、そんな朝だった。
彼の指先が、手帳のページを丁寧にめくる。
その横顔からは、仕事への情熱が滲み出ていた。

 最初の会話は、仕事の話だった。
気づけば、二人の間には熱を帯びた空気が流れ、言葉が尽きることもなかった。
誰よりも仕事に夢中な彼に、私は不思議な親近感を抱いた。

 やがて、季節は春へとうつろい、私たちは同じ部屋で暮らし始めた。
桜が舞う道を並んで歩いた日々、ベランダに差し込む午後の光、コーヒーの香り。
自然に、結婚という未来を想像するようになった。

 けれど、夏の夕立のように、静かな違和感が胸の中に積もり始めた。
彼も私も、仕事がすべてだった。
お互いの疲れた背中を見送る夜が増え、食卓には二つの空の椅子が並ぶことが多くなった。

 ある夜、私は一人きりで冷えた紅茶を口にした。
カップの中で、淡い光が揺れる。
寂しさが、底なしの井戸のように心に広がっていくのを感じていた。
私は仕事が一番だと思っていたはずなのに、彼の不在がこんなにも心を沈めるとは、想像しなかった。

 どうして、こんなに苦しいのだろう――。

 ある晩、彼が珍しく早く帰宅した。
私は、ついに問いかけてしまった。

「仕事と私、どっちが大切なの?」

 言葉が空気を震わせ、部屋の静けさを切り裂いた。
彼はしばらく黙っていた。
時計の秒針の音だけが、重く響く。

「夕紀のことは、本当に大切だよ。
でも、今は仕事を手放すことはできない」

 彼の声は、どこか遠くから聞こえるようだった。

 私たちの間に沈黙が落ち、その夜、未来への扉が音もなく閉じるのを感じた。



 数日後、私は引っ越しの準備をしていた。
段ボール箱に思い出を詰め、何もなくなった部屋に膝を抱えて座る。
雨上がりの午後、窓の外では鈍色の雲が流れていく。
壁に残る小さな釘の跡、床に残るコーヒーの染み――すべてが、私たちがここにいた証だった。

 私はその場に座り込み、手のひらで顔を覆った。
冷たい床の感触が、現実の重みを伝えてくる。
涙は静かに、頬を伝い落ちていく。

 後悔の念が、重い鎖のように私の心を縛りつける。
なぜ、もっと彼の大切な仕事を理解してあげられなかったのだろう。
なぜ、あの夜、あんな言葉を口にしてしまったのだろう。

 夕暮れの光が、部屋の隅に淡く残っていた。
やがて、その光も静かに消えていった。
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