妻と娘がこの世を去ってから、既に一ヶ月という時間が過ぎた。
その時間の流れは、まるで自分だけが取り残されたような鈍重さで、音もなく、じわじわと心の奥深くに染み込んでいく。
あの出来事の全貌を知ったのは、六月のまだ肌寒い早朝だった。
窓の外で小雨がアスファルトを叩き、ホテルの窓ガラスには水滴が筋を作っていた。
俺は根室の安宿のベッドで、まだ眠気が残る頭で電話を受けた。
受話器の向こうから聞こえる声は、妙に平坦で現実感がなく、まるで遠い世界の出来事を伝えるニュースのようだった。
「奥様とお嬢様が事故に遭われました」と、その言葉が空気を切り裂くように耳に刺さった瞬間、胸の奥が一気に冷たくなった。
出張先からの帰路は、記憶の薄靄に包まれている。
切符を手に取り、乗車口のホームに立っていたはずだが、列車の音や人のざわめき、車窓から流れる景色の色彩は、すべて霞がかったスクリーン越しのように遠かった。
改札の冷たい金属、駅の古びたベンチの木のささくれ、切符を握りしめる手のひらの汗ばみ。
どれも現実感がなく、ただ「何かしなければ」という焦燥だけが、心臓を早鐘のように打たせていた。
何時間かかったのか、どの道を通ったのか、ほとんど覚えていない。
ただ、根室から故郷に戻るまでの道のりが途方もなく長く、冷たく、孤独だったことだけが、体の芯にこびりついている。
病院の霊安室は、白い蛍光灯の光がやけに冷たく、無機質だった。
ドアを開けた瞬間、あの特有の消毒薬の匂いと、冷蔵庫のような空気の重さに、心臓がひときわ強く跳ねた。
奥のベッドに横たえられた二つの小さな影。
妻は白い布と包帯で覆われ、顔の輪郭さえ曖昧だった。
娘もまた、小さな体がぐるぐると包帯で巻かれ、形を失っていた。
「ぺちゃんこだった」と、後で医師が沈んだ声で語った言葉の重みが、今も耳の奥にこびりついて離れない。
どんなに目を凝らしても、そこにいたはずの「彼女たち」はもういなくて、ただ冷たく静かな空気だけが、彼女たちの不在を際立たせていた。
葬式は、ごく小さく、密やかに執り行われた。
親戚だけが静かに集まっていたが、その場には沈黙ばかりが満ちていた。
祭壇には、まだ温もりが残っていそうな写真が飾られていた。
娘の幼稚園の先生が、震える手で小さな花束を捧げ、堪えきれずに泣き崩れた。
妻の職場の上司も、言葉にならない嗚咽を漏らし、骨壷の前で肩を震わせていた。
しかし、俺自身は涙を流すことができなかった。
ただ、胸の奥に鉛のような重さを感じながら、ぼんやりと祭壇のろうそくの揺れる炎を見つめていた。
その炎の揺れは、まるで彼女たちの消えかけた命の残り火のようで、何度も何度も瞬きしながら、やがて静かに消えていった。
葬儀が終わり、家に帰ったその夜のことを、今でも鮮明に覚えている。
玄関のドアを開けた瞬間、湿気を帯びた夏の夜の空気と、わずかに残る柔軟剤の香りが混じり合った。
廊下の先には、干したままの洗濯物が揺れもせず静止していた。
リビングのテーブルには、作りかけの冷えたご飯と、まだ湯気の残り香が漂う味噌汁の鍋。
娘が好きだったクッキーが、ラップに包まれて置かれていた。
パソコンは青白い光を放ち、画面には妻が途中まで書いたらしいレシピサイトがそのまま映っていた。
部屋の静けさは重く、時計の針の音すら耳障りに響いた。
夜が更けても、朝が来ても、家の中には俺一人。
誰もいない空間が、圧倒的な静寂とともに、彼女たちの不在を突きつけ続けてきた。
仕事に行く気力も湧かず、ただ部屋の片付けを始めようと手を動かすたびに、何気ない品々から妻と娘の声や笑顔が蘇る。
娘の小さなスニーカー、妻が使っていたマグカップ、洗面台に残されたヘアゴム、枕元に置かれた絵本。
ひとつひとつに指先が触れるたび、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
「もう二度と会えない」という現実が、ゆっくりと、しかし確実に自分を押し潰していく。
涙はその時になって初めてあふれ、三日三晩、俺は声を殺して泣き続けた。
枕は涙でびしょ濡れになり、朝焼けがカーテンの隙間から入り込む頃、ようやく目を閉じることができた。
自殺を考えた夜もあった。
ベランダの手すりにもたれ、夜風が頬をなでる中、漆黒の空を仰いで「このまま消えてしまえば楽になれるのか」と自問した。
しかし、そこから一歩を踏み出す勇気は、どうしても湧いてこなかった。
毎朝、眠りの浅い中で夢を見る。
夢の中では、妻がいつものようにエプロン姿で台所に立ち、優しい声で「頑張ってね」と送り出してくれる。
娘は小さな手を伸ばし、「パパ、チュウ!」と言ってほっぺにキスをねだる。
俺はその小さな唇にそっとキスをして、妻にも「いってきます」のキスをする。
その温もりや匂いまでが、やけにリアルに感じられ、現実と区別がつかなくなる。
だが、夢の終わりには、必ず見知らぬ誰かが冷たく「もう居ないんだよ」と囁き、俺は汗ばんだ体で飛び起きる。
眠るのが怖くなり、それでも眠ればまた、「チュウしていないんだよ」と誰かに咎められる悪夢が訪れる。
朝になると、胸は焼けるように痛み、口の中は乾ききっていた。
体がだるいとき、妻はぬるめの白湯を差し出し、ビタミン剤をそっと手渡してくれた。
肩が凝ると、力の加減を気にしながら一生懸命に揉んでくれた。
根室の出張で食べたハスカップの話を、あの焼き鳥弁当の味を、妻に話したかった。
帰りには蟹やエビ、ホタテ、昆布を土産に買うつもりだった。
娘には、約束していた「まりもっこり」のぬいぐるみを。
スワンという道の駅で撮った写真も、スマホの中に残ったまま、まだ彼女たちに送っていない。
そんな細々とした後悔や未練が、毎日心をかじり続けている。
娘の小さな布団は、そのまま敷かれている。
妻のカーディガンも、椅子に掛けられたまま、わずかに洗剤の香りを残している。
部屋の空気は、どこか取り残されたままの時間を漂わせていた。
誰もが「時間が解決する」と言うけれど、その言葉を信じることができない。
喪失を乗り越えた人は、本当に存在するのだろうか。
もしそうなら、それは人間を超えた強さを持った者だけだ。
少なくとも、俺にはできそうもない。
静けさと孤独の底で、今もなお、妻と娘の幻影は消えずにいる。
切ない話:「静寂に沈む家、喪失の夜明け―妻と娘を失った男の一ヶ月」
「静寂に沈む家、喪失の夜明け―妻と娘を失った男の一ヶ月」
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