切ない話:静寂の家、白い朝――妻子を喪った男のひと月

静寂の家、白い朝――妻子を喪った男のひと月

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朝靄が窓の外を薄絹のように包み込み、世界をやわらかく曇らせている。
その空気の重さの中で、俺はただぼんやりと天井を見つめていた。
ここは、かつて家族の声が満ちていた場所。
今は、静寂という名の獣が棲みついている。

 ひと月前の出来事が、現実だったのかどうかさえ、いまだに定かではない。
あの日、出張先の根室で電話を受けた。
耳の奥で、誰かが遠くから名前を呼んでいるような、そんな幻聴めいた響き。
交通事故――単独で車ごと砕け、妻と娘はこの世から消えたのだと、そう告げられた。
手元の資料も、仕事の段取りも、その瞬間すべて意味を失った。
どうやって帰郷したのか、記憶は薄氷の上を歩いたように、ところどころ欠け落ちている。

 病院の霊安室。
蛍光灯の白さが、包帯に覆われた二人の輪郭を際立たせていた。
娘もまた、まるで壊れ物のように、布の繭にくるまれていた。
医師が「葬儀の前に火葬を」と低く告げたとき、俺はただ頷くしかなかった。
指先がかすかに震えていた。
だが、涙は流れなかった。

 葬式も、夢のように曖昧だ。
密やかな式場に集まったのは、ほんのわずかな親戚たち。
幼稚園の先生が、娘の名を呼びながら骨壺の前で泣いた。
妻の職場の上司も、静かに手を合わせていた。
その光景だけが妙に鮮やかに脳裏に焼きついている。
俺は、どこか遠い場所に立っているような心地で、ただその場にいた。
心は、壊れた時計の針のように止まったままだった。

 家へ戻ると、時がそこで凍りついていた。
干されたままのシャツ、炊飯器の中の作りかけのご飯、タッパーに詰められた小さなケーキ。
パソコンの画面は、妻が最後に開いたままのままだった。
夜が明けても、朝が来ても、家族の気配はどこかに溶けて消えてしまった。
広がる静けさが、かえって不在を際立たせる。
ひとりきりの食卓。
空になった椅子。
カーテンの隙間から差し込む光だけが、時間の流れを告げていた。

 整理を始めても、手はしばしば宙で止まる。
娘の小さな靴、妻のカーディガン。
香りがまだ微かに残っている。
触れれば、遠い声が聞こえてきそうだった。
現実は、容赦なく胸へと突き刺さる。
「もう二度と会えない」その重さが、鈍色の雲のように心を覆う。
三日間、俺は泣き続けた。
涙は枯れず、ただ流れ、やがて静かに乾いた。

 自殺を考えなかったと言えば嘘になる。
夜、布団に横たわるたび、闇の中で自分の命の重さを測りかねた。
でも、結局、俺にはそれすらできなかった。
朝になると、決まって夢を見る。
そこでは、妻が微笑んで「頑張ってね」と送り出してくれる。
俺は、娘の柔らかな頬にチュウをし、妻にもそっとキスをして仕事へ向かう。
だが、夢の終わりには必ず誰か――顔の見えない誰かが、「もう居ないんだよ」と囁く。
目覚めるたび、胸の奥に冷たい釘が打ち込まれる。
眠れぬ夜が続く。
いや、眠ること自体が恐ろしい。
夢の中で「チュウしてないよ」と責められるたび、罪悪感が雪のように降り積もる。

 体がだるい朝、妻はいつもぬるめの白湯とビタミン剤をそっと差し出してくれた。
肩凝りを訴えれば、拙い手つきで揉んでくれた。
出張先の話――ハスカップの酸っぱい味や、焼き鳥弁当の香ばしさ――そんな些細なことも、もう話せない。
帰りには「蟹とエビとホタテと昆布を買って帰る」と約束していたことや、「まりもっこり」を娘に買うと約束したこと、すべてが遠い過去になった。
道の駅スワンから撮った写真も、まだ送れずにいる。

 娘の布団は小さく敷きっぱなし。
妻のカーディガンは、椅子の背に静かに掛けられたまま。
すべてが、時の中に取り残されている。
人は「時間が解決する」と言う。
だが、本当にそうなのか?乗り越えた者は、きっと超人なのだろう。
俺には――無理だ。

 静寂だけが、今日もこの家を満たしている。
壁にかかる時計は、いつも通りに時を刻む。
その音が、まるで「何も変わらない」と告げるようだった。

 俺は、ただ、ここにいる。
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