朝靄は、校舎のガラス窓を薄く曇らせていた。
三月。
桜の蕾はまだ固く、けれども春の気配は確実にこの町を包み始めている。
卒業式の日の朝、私は校舎を歩きながら、胸の奥にひとつの重みを感じていた。
教育者として、私は幾度となく自問していた――子どもたちに何を伝えるべきか、何を残せるのか、と。
式が終わり、静まり返った廊下に革靴の音が響いた。
視聴覚室の扉を開けると、光が斜めに差し込み、埃が銀色の糸のように揺れていた。
三年生全員と、その保護者たちが入室してくる。
生徒の顔は誇らしさと不安、期待と寂しさで揺れていた。
親たちは静かに、しかしどこか張り詰めた表情で子どもたちの隣に腰を下ろす。
「目を閉じてください」
私の声が、広い部屋に淡く響いた。
生徒たちは、守られた子供のように、親の隣でそっと目を閉じる。
私はその姿に、言葉にならぬ祈りを捧げた。
「これまでの人生で、お父さんやお母さんに心配をかけたことを、思い出してください」
静寂の中、時計の秒針が遠くで刻む音がやけに大きく聞こえた。
「交通事故、親子喧嘩、学校でのささいな出来事……どれだけご両親に負担をかけてきたか、振り返ってみてください」
私は一人ひとりの顔を見つめた。
長い睫毛の陰から、涙がそっと流れ落ちる生徒がいた。
拳を膝の上で固く握る者もいた。
「あなたたちが今日ここにいられるのは、親が懸命に働き、惜しみなく愛情と時間とお金を注いでくれたからです」
私は、教員という立場の仮面を脱ぎ捨て、心から語りかけた。
「先生への感謝も大切です。
しかし、まずは親に、心から感謝を伝えてほしい」
どこかで、嗚咽が小さく漏れた。
春の光が、窓辺の親と子の横顔をやさしく照らしていた。
私はそっと言葉を重ねる。
「本当に心から親に感謝しているなら、今、その思いを形にしてください。
隣にいるお父さんやお母さんの手を、握ってください」
一瞬の戸惑いののち、教室に静かな波が広がった。
生徒たちはおずおずと手を伸ばした。
節くれだった親の手に、若い手が重なる。
その手は、幼い頃から彼らを守り、育て、時には厳しく叱り、時にはやさしく撫でてきた手だった。
指先が触れ合い、温もりが伝わる。
その瞬間、抑え込んでいた感情がいっせいに溢れ出した。
部屋中に、涙と嗚咽のさざ波が広がる。
「これらの手が、あなたたちを愛し、育て、守ってきた手です。
そのことを、どうか忘れないでください」
私は静かに、けれど揺るぎない声で言った。
「今改めて、その手を握りしめ、心から『ありがとう』を伝えてください」
誰かが泣き崩れ、誰かが声を殺して泣いた。
親たちの目も赤い。
私はしばし、言葉を呑み込む。
「……目を開けてください」
ゆっくりと、重い瞼が開かれた。
涙でにじんだ視界の向こう、親と子が向き合い、抱き合う姿があった。
私は教壇に立ちながら、ただ静かに見守るしかなかった。
「この授業が伝えたかったのは、親への深い感謝と尊敬です。
今日のこのひとときが、あなたたちの心に残ることを、心から願っています」
教室を出ると、廊下には春の匂いが満ちていた。
桜の蕾がほころぶ頃、彼らの心にもまた、新しい何かが芽吹くだろう。
卒業とは、終わりではない。
親と子が交わしたあの「ありがとう」の言葉が、これからの人生を照らし続ける光となることを、私は信じていた。
感動する話:春の光、涙の手――卒業式の視聴覚室にて
春の光、涙の手――卒業式の視聴覚室にて
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