午前十一時半をまわった頃、社内の空気は昼休みを前に緩やかに温度を帯び始めていた。
南向きの大窓から差し込む初夏の陽光が、フロアを優しく照らしている。
蛍光灯の白さと、窓際の緑が交差し、無機質なデスクの列の合間に柔らかな影を落としていた。
天井のエアコンからは微かにひんやりした空気が流れ、パソコンのファン音や、誰かが紙をめくるかすかな音が、広い空間に溶け込んでいる。
オフィス特有の消毒液の香りや、朝のコーヒーの残り香、微かに汗ばんだ衣服の匂いが混じり合い、忙しない日常の一断面を形作っていた。
この会社では、社員同士が広いフロアのあちこちに散って働いている。
誰もが自分の世界に没頭し、時に同僚がどこにいるのかさえ把握しきれない。
だから、席を外している同僚に携帯電話で連絡を取ることは、ごく自然な光景だった。
そんな日常の一齣に、思いがけない出来事が滑り込んだ。
Aさんは、淡い水色のシャツの袖をまくりながら、自席の椅子に深く腰掛けていた。
やや猫背気味にパソコンの画面を見つめ、時折眉間に皺を寄せる。
彼女の指先は、電話の発信ボタンを押すと同時にわずかに震え、無意識に左手で髪をかき上げた。
携帯電話の表面は手の熱で少しだけ温まっている。
彼女の耳元で、着信音を待つ静かな間。
フロアの雑音が一瞬、遠ざかったような錯覚。
Aさんは小さな溜息をつき、心の奥で「Bさん、今どこだろう」とぼんやり考えていた。
仕事の進行上、どうしても確認したいことがあったのだ。
ほどなくして、携帯からBさんの声が聞こえてくる。
「あ、Bさんですか〜?」Aさんは、いつもより少しだけ柔らかいトーンで呼びかけた。
Bさんの声は、電話越しに聞くと幾分くぐもっているが、明るく、どこか余裕が感じられる。
「はい、Bですけど……」その声が、どこか近くから響いた気がした。
実はそのBさんは、Aさんのすぐ背後、ほんの数十センチの距離を隔てて、背中合わせに座っていた。
Bさんは、ついさっきまでコピー機の前で書類の束と格闘し、慌ただしく自席に戻ってきたばかりだった。
椅子に座り直したばかりで、まだ太腿には椅子の硬さの余韻が残っていた。
Aさんが電話をかける直前、Bさんの携帯が一瞬だけ控えめに震え、デスクの上で小さな音を立てていた。
しかし、Bさんはその着信が自分宛てだとは夢にも思っていなかった。
電話がつながり、AさんとBさんはごく自然に会話を始める。
周囲の同僚たちは、その奇妙な状況に最初は気づかず、徐々に「……あれ?」と不思議そうな表情を浮かべ始めた。
二人の声が、電話越しとリアルの両方から微妙にずれて聞こえ、ちぐはぐなエコーのようにフロアに響く。
その瞬間、近くの同僚が肩を揺らし、押し殺した笑いが波紋のように広がった。
誰かが思わず机を叩き、もう一人はコーヒーカップを持つ手を止めて目を丸くする。
笑いの渦が、静かなオフィスに一瞬だけ彩りを与えた。
Aさんは、周囲のざわめきに気づき、後ろから視線を感じた。
Bさんもまた、背中越しに奇妙な違和感を覚えた。
ふたりは、ほとんど同じタイミングで椅子を回転させ、驚いた顔で互いを見つめ合った。
「なんでー!」二人の声が重なり、笑いと困惑が入り混じった瞬間だった。
Aさんの頬はほんのり赤くなり、Bさんも口元を引きつらせながら苦笑している。
二人の間に流れる空気は、ほんの数秒前までの緊張や業務の重苦しさとはまったく違う、軽やかであたたかなものへと変わっていた。
デスクの上に置かれた携帯電話が、今やただの小道具のように見える。
周囲の同僚たちも、しばらく笑いが止まらず、社内全体に柔らかな余韻が残った。
この偶然の一幕は、広いオフィスの中で生まれた小さな奇跡のようだった。
背中合わせ――ほんの数十センチの距離。
それは日々の業務の中で、互いの存在を当たり前に感じながらも、時に見失ってしまう「近さ」と「遠さ」の象徴だったのかもしれない。
AさんとBさんは、ふとした偶然から生まれる笑いが、どんなに緊張した日常にも、温かな余白を残してくれることを、改めて実感していた。
そして、誰かがオフィスの窓を開け放つと、初夏の風がさっと吹き抜ける。
その風に揺れるブラインドの影の中で、AさんもBさんも、心の奥底で「こんな日も悪くない」と小さく微笑んだのだった。
仕事・学校の話:社内に響く笑いと驚き──広大なオフィスで背中合わせに交差した偶然の一瞬
社内に響く笑いと驚き──広大なオフィスで背中合わせに交差した偶然の一瞬
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