仕事・学校の話:背中越しの微笑──オフィスに響く二人の声

背中越しの微笑──オフィスに響く二人の声

📚 小説 に変換して表示中
昼下がりのオフィスには、蛍光灯の白い光と、微かなキーボードの打鍵音が満ちていた。
窓の向こうには、初夏の陽射しが淡くビルの屋上を照らしている。
空調の冷たい風が書類の端を震わせ、微かに印刷インクの匂いが漂ってくる。

 Aは自席に腰を沈めた。
広い執務フロアの一角、彼のデスクの上には、午前中の会議で使ったメモが無造作に積まれている。
ふと隣の席を見ると、いつもは賑やかなBの姿が見当たらなかった。

 ──こんな広い会社で、人ひとりの気配が消えるのは容易い。

 Aはポケットから携帯電話を取り出し、その手触りの冷たさに一瞬だけ現実を思い出す。
指先に汗が滲む。
目の前の液晶に表示されるBの名前。

 「……出てくれよ」
 小声で独りごち、通話ボタンを押した。

 呼び出し音が二度、三度。
Aは無意識に椅子を揺らす。
そのとき、真後ろのデスクで微かな物音がした。
けれど、それが誰なのか、Aは確かめることもなく、電話を耳に当て続けた。

 「もしもし、Bさんですか?」

 言葉を発した瞬間、背中越しに聞き覚えのある声が重なった。

 「もしもし?」
 Bの声だ。
あまりにも近い。
電話越しに響くはずの声が、現実世界に溶け込んでくる。
その違和感に、Aの心臓は一拍大きく跳ねた。

 ──まさか。

 Aは振り向く。
すると、そこにはBがいた。
背中合わせに座り、驚きと戸惑いが入り混じった表情で携帯を持っている。

 「なんで……」
 二人の声が重なる。
周囲の同僚たちが、一斉に笑いの花を咲かせた。

 「まさか、ここにいるとはね」
 Bが呆れたように笑い、Aも、ひと呼吸遅れて頬を緩める。

 背中合わせ――。

 それは、たった数十センチの距離なのに、まるで遠い誰かに連絡を取ろうとしていた自分が可笑しかった。
電話越しの声と現実の声が重なった一瞬、オフィスという広大な迷路の中で、思いがけず交差したふたりの時間。

 Aは、自分の中にあった緊張や焦燥が、氷が融けるように静かに消えていくのを感じた。

 笑い声がしばらくオフィスに残響し、やがて再び、キーボードの音が小さな波紋のように広がっていった。
読了
スワイプして関連記事へ
0%
ホーム
更新順
ランダム
変換
音読
リスト
保存
続きを読む

コメント

まだコメントがありません。最初のコメントを投稿してみませんか?

記事要約(300文字)

ダミー1にテキストを変換しています...

0%
変換中