記憶の断絶と自己同一性――小学生時代の「空白」をめぐる心理・哲学的考察

1. これは「自己の連続性と断絶」をめぐる物語である

本稿が扱うのは、小学3年冬から4年5月までの「思い出せない記憶」という私的体験である。
単なるエピソードの羅列ではなく、自己同一性・意識・記憶の本質を鋭く問う、深い実存的問いがここには潜んでいる。
言い換えれば、これは「私はなぜ私であり続けるのか」という普遍的問題の物語である。

2. 導入：問題提起――「記憶の喪失」は何を意味するのか

まず、表層的に出来事を整理しよう。
語り手は校庭でサッカーをしていた記憶を最後に、突然、学校の廊下にある大きな鏡の前に立っていた。
時間は数か月経過しており、名札や周囲の変化から「自分が4年生になっている」ことを知覚する。
しかし、その間の個人的記憶は完全に途切れている。
自分の字で書かれたノートや、使い古された教科書を見ても、その「経験したはずの過去」を思い出せない。
違和感と不安を抱きながら日常に復帰し、やがて「この間に別の人格がいたのでは」と考えるに至る。

3. 展開：多角的分析

(1) 心理学的アプローチ――解離と自己防衛のメカニズム

この体験は、現象学的に「解離性健忘（dissociative amnesia）」と呼ばれる。
これは、強いストレスや心理的葛藤に対し、無意識的に自己の記憶を遮断する防衛機制である。
なぜなら、受け入れがたい出来事や感情が意識に上ることを防ぐことで、心理的均衡を保とうとするからだ。
確かに語り手は「普段からボーッとしていた」と述べているが、これは自己観察による「現実からの遊離（depersonalization）」の萌芽とも解釈できる。

(2) 社会学的視点――学校という制度と「私」

舞台は小学校という強固な社会的枠組みである。
学年やクラス、名札や教科書など、個人の自我は常に制度的ラベリング（labeling）と切り離せない。
記憶を失っても、「4年1組」の名札や教室の場所によって自己を再構成する過程には、社会的アイデンティティの再獲得が見て取れる。
つまり、自己とは「内的記憶」のみならず、「外的ラベル」によっても支えられている。

(3) 哲学的考察――連続する「私」とは何か

記憶の断絶は「自分は本当に同じ自分なのか」という実存的疑問を呼び起こす。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」やロックの「記憶説（memory theory）」――すなわち、記憶の連続によって自己同一性が保証されるという哲学的議論――がここで想起される。
しかし本件では、物理的・社会的には「同じ人間」でありながら、内的自己が非連続である。
この逆説が、語り手に強い不安と自己探求の契機を与えている。

(4) 象徴と神話的構造――鏡・別人格・通過儀礼

鏡のモチーフはしばしば「自己認識」や「変容」の象徴である。
語り手が「大きな鏡の前」に立つ場面は、まるで神話的な「通過儀礼」や「再誕生」の瞬間に重なる。
さらに「別の人格がいたのでは」という発想は、ユング心理学の「影（shadow）」や多重人格（DID）といった元型的パターンを想起させる。

4. 深化：内的・外的「私」の統合可能性

表層の出来事（記憶喪失）と、中層で浮上する「社会的役割」「心理的防衛」、さらに深層の「実存的不安」と「象徴的再生」。
これらはすべて、自己とは単一・連続的なものではなく、社会的・心理的・哲学的要素によって絶えず組み直される「流動的なプロセス」であることを示唆する。
言い換えれば、「私」とは、絶えざる問い直しと再構成の場そのものである。

5. 統合：総合的視点と普遍的テーマ

この物語は、単なる「不思議な記憶喪失」の体験談では終わらない。
むしろ「自己とは何か」「どこまでが私なのか」という根源的問題を、子ども時代の出来事を通じて私たちに投げかけている。
現代社会において、記憶・役割・意識の断絶は誰にでも起こりうる。
だからこそ、「自己の連続性」は絶対不変ではなく、むしろ揺らぎの中でこそ本質が現れる。
記憶が飛ぶ――この体験は、「私は私であり続けることをどう保証できるのか」という、すべての人間に共通する普遍的なテーマの一断面である。