不思議な話:鏡の中の消えた季節――冬から初夏へ、記憶の断絶をめぐる物語

鏡の中の消えた季節――冬から初夏へ、記憶の断絶をめぐる物語

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冬の空気は、いつもより少しだけ重かった。
遠くから運動場に響く子どもたちの歓声が、白い吐息のように空へ溶けていく。
あの日――小学三年の終わり、僕は校庭でサッカーボールを追いかけていた。
乾いた土の匂い。
友だちの笑い声。
シュートしたボールが宙を切り裂く音。
それが、僕の記憶の最後だった。

 次に意識が戻ったとき、僕は見知らぬ廊下に立っていた。
いや、見知らぬはずのない学校の廊下だった。
だが、時間だけが唐突に飛び越えていた。
僕の目の前には、巨大な鏡。
その中に映る自分を、まるで他人のように見つめていた。
鏡の奥からこちらを見返す少年の瞳は、驚きと戸惑いで揺れていた。
まるで、テレビのチャンネルが勝手に切り替わったような、現実の継ぎ目がどこにも見当たらない感覚。

 静まり返った廊下。
窓の外では、透明な光が春の兆しを告げていた。
僕は鏡の前で、ぼんやりとした自分の顔を間近に見つめ、指先で頬をそっと撫でてみた。
幼さの残る顔立ちに、どこか見覚えのない輪郭が浮かんでいる。
制服の袖を引っ張ると、少しだけ腕が長くなっているのが分かった。
自分の身体なのに、他人のもののような奇妙な感覚。
不安が喉元までこみ上げ、涙がこぼれそうになる。

 胸元の名札。
「4年1組」と青い文字が小さく光っていた。
その瞬間、封じられていた水晶のような情報が、少しずつ、氷解していくのを感じた。
僕はもう四年生になっている。
今は五月。
教室は二階の左端――断片的な事実だけが、なぜか頭の奥底に沈殿していた。
だが、その間に起きたはずの日々は、どこにもなかった。

 廊下にチャイムが鳴り響いた。
金属質な音が、現実へと僕を引き戻す。
とりあえず、教室へ戻らなくては。
階段を上りながら、足元を確かめるように一歩ずつ進む。
扉を開けると、見覚えのある顔ぶれがざわめいていた。
クラスは二つしかない。
それなのに、何もかもが遠い世界の出来事のようだった。

 授業が始まる。
新しい教科書のページをめくった。
紙の匂い。
折り目やインクの擦れが、見知らぬ地図のように広がる。
ノートの表紙には自分の名前。
中に書かれた字も、確かに自分のものだった。
だが、書いた記憶はどこにもなかった。
先生の声が静かに教室に満ちる。
言葉は理解できるのに、心のどこかで何かが空白のまま、埋まらなかった。

 日々は、淡く流れていった。
違和感は、春の霞のように僕の周囲を漂いつづけた。
テレビで何を観たか、友だちと何を話したか、家族でどんな夕食を囲んだのか。
そのすべてが、手の届かない霧の向こうへ消えていた。

 家族にも、友人にも、この奇妙な空白について話すことはなかった。
普段からぼんやりしている僕は、「忘れちゃった」と笑ってごまかしていた。
でも、心の内側では、不安が静かに膨らみ続けていた。

 大人になった今、ふと考えることがある。
もし、あのときのように二年も三年も、記憶がまるごと消え去ってしまったら――。
想像するだけで、背筋が冷たい風に撫でられる。

 あの冬と初夏のあいだ、僕はどこにいたのだろう。
鏡の中の自分は、何を見ていたのか。
あるいは、鏡の向こうに、もうひとりの僕がいたのかもしれない。
記憶の空白は、僕の中で静かに息をひそめている。
今も、変わらず。
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