朝焼けがまだ街路を淡く照らしていた。
小さな歯科医院の控室には、消毒液と古びたカレンダーの匂いがしみついている。
私はいつもより早く出勤し、診察台のシートを丁寧に拭いていた。
窓の外、遠くで蝉が一斉に鳴き始めている。
夏という季節が、街全体をじわじわと包み込もうとしていた。
その日、新人の彼女が扉を開けて現れた瞬間、私は思わず手にしたクロスを取り落とした。
まるで、南の島から迷い込んできた人魚のようだった。
彼女は上半身に鮮やかなビキニを身に着け、下は色褪せたデニムのショートパンツ。
褐色に焼けた肌には、昨日までにはなかった濃い日焼けの跡が浮かんでいた。
「おはようございます」
彼女は何事もなかったかのように微笑む。
私はどう返事をすればいいのかわからず、ただ曖昧に会釈を返した。
診療室にはほかのスタッフも集まりはじめていたが、誰もが言葉を失って彼女を見つめている。
空調の音だけが、妙に大きく耳に残った。
「洗濯機が壊れちゃって……着るもの、これしかなくて」
彼女はそう言って、わずかに肩をすくめた。
その仕草があまりに無防備で、私は胸の奥がざわつくのを覚えた。
だがその目の奥に、どこか誤魔化すような光がちらついていたのも、見逃さなかった。
――本当に、洗濯機のせいなのか?
昨日よりもさらに濃く焼けた肌が、すべてを雄弁に物語っている気がした。
潮風の残り香が、彼女の肌からふんわりと漂ってきた。
きっと、朝まで海辺にいたのだろう。
夜明け前の波の音、濡れた砂の感触、そのすべてを身体にまとったまま、彼女はこの場所へやってきたのだ。
「すごいなあ、海の帰り?」
誰かが半ば冗談めかしてつぶやいた。
「まさかね」と別のスタッフが笑い、空気がほんの少しだけ緩んだ。
だが笑いの中には、戸惑いと戸締まりのようなものが混じっていた。
私はふと、彼女の横顔を見つめた。
彼女の影は、医院の白い床に長く落ちている。
それは、どこにも属せない影――この場所に居続けることのできない影だった。
その日の昼下がり、院長が彼女をそっと呼び出した。
窓の外では、蝉があいかわらずけたたましく鳴いている。
私は診察室の片隅で、消毒用のアルコールの瓶を無意味に並べ替えながら、彼女の運命を思った。
退職を伝えられた彼女は、何も言わなかったという。
ただ、静かに頷き、鞄を手に医院を去っていったそうだ。
夏の陽射しが、窓ガラス越しに強く差し込んでいた。
私はぼんやりと、彼女の残した潮の香りと、鮮やかなビキニの色を思い出していた。
あれは、きっと彼女なりの自由の証だったのだろう。
だが、この場所には似合わなかった。
それだけのことだった。
やがて、夏は終わる。
彼女の影は、もう二度と白い床を横切ることはない。
仕事・学校の話:海から来た新人――或る歯科医院の短い夏
海から来た新人――或る歯科医院の短い夏
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