感動する話:薄明の祝宴、母の面影は銀幕に揺れて

薄明の祝宴、母の面影は銀幕に揺れて

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六月の午後、淡い陽射しが窓辺のグラスを淡く照らしていた。
ホテルの宴会場には、白いクロスの波が続き、人々の笑い声とグラスの触れ合う音が、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。

 明子は、花嫁衣裳の裾をそっと整えながら、緊張と高揚の間を漂っていた。
目の前の景色が、霞がかった夢の中のように現実味を帯びてこない。
友人や親族の祝福も、どこか水の底から聞こえてくるようだった。

 やがて、司会者が声を張った。
「それでは、新婦のお父様より、ご挨拶をいただきます――」静まり返る会場。
空調の風がほのかに髪を揺らし、シャンデリアの光が淡く煌めいた。

 父は一歩前に出た。
背筋はまっすぐに伸びているが、顔には長い歳月の影がにじむ。
マイクを握る手は、かすかに震えていた。

「明子。
お前が生まれた時、お母さんは病気で亡くなった」

 静かな声が、会場の隅々に沁み渡る。
明子の胸の奥で、何かがひっそりと波紋を描く。

「写真でしか母の顔を知らず、母の声も聞いたことがないお前。
それでも、文句ひとつ言わず、明るく育ってくれた」

 父の言葉は、淡雪のように静かに降り積もる。
明子は自分の手を膝の上でそっと握りしめた。
指先がうっすらと冷たい。

「家事もよく手伝い、手のかからない子だった。
今日、素敵な人と結婚するお前を見て、お母さんもきっと喜んでいるだろう。
私には、お前に渡したいものがある」

 父はそう言って、脇に置かれていた小さな箱を開ける。
その動作に、会場の空気がふっと張り詰める。
中から現れたのは、ひびの入った古いビデオテープだった。
時の重みが、そこに宿っているようだった。

 スタッフが手際よく会場のプレーヤーにテープをセットする。
誰もが息を呑み――そして、画面が光を放つ。

 画面の奥には、病院の白い壁。
新生児を腕に抱く一人の女性が映し出された。
淡い光の中、柔らかな頬が赤ん坊の髪に触れている。
その女性の顔は、明子が写真でしか知らなかった――母だった。

 映像の中で母は、幸せそうに赤ん坊をあやしている。
その声は、スピーカーを通してかすかに、しかし確かに会場へと流れた。

「明子……大きくなって、幸せになってね……」

 明子の胸の奥で、何かが音を立てて崩れていった。
自分の知らなかった母の声。
今この瞬間、二十五年の時を越えて、初めて自分の名前を呼ぶその響き。

 頬を伝う涙は止めようがなかった。
周囲の祝福の声も、控えめなすすり泣きも、すべてが遠ざかる。
彼女は、ただ画面の中の母に見入り続けるしかなかった。

 ふと気づけば、参列者たちもまた、各々の思いに沈み、静かに涙を拭っていた。
父はその傍らで、穏やかな表情を保っていた。
ただ、瞳の奥に静かな波紋が広がっていた。

 ――父は、ずっとこの瞬間のために、母の愛を胸に秘めていたのだ。

 会場の空気は、湿った六月の匂いに溶け、過去と現在とが静かに交錯した。
明子の心に、母のぬくもりが、そして父の静かな愛が、そっと宿った。

 その夜、明子は白い花束を胸に、祝宴の余韻を抱きしめながら、銀幕の中で微笑む母の面影を、いつまでも忘れまいと誓った。
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