入社してからというもの、私はただひたすら数字を追い続けてきた。
蛍光灯の光がいつも頭上で白く瞬き、パソコンの冷たいブルーライトが私の顔色を悪くする。
キーボードを打つ指先が、時に熱を帯び、時に痺れるような疲労感に包まれる。
朝焼けの淡い光がオフィスの窓を染める頃には、既に私の脳裏には、今日こなすべき数値目標と、上司の期待が渦巻いていた。
その生活が、気づけば七年も続いていた。
毎朝の満員電車のざわめき、コーヒーショップのほのかな焙煎の香り、社内のプリンターが紙を吐き出す音。
それらが日常となり、いつしか「働くこと」と「生きること」の境界が曖昧になっていった。
会社という小さな宇宙の中で、私は意味のある数字だけを追い、積み重ね、時には同僚や上司の視線に鼓動を早めながら、ただ前へと進んできた。
そんな日々にも、少しずつ変化が訪れる。
昇格通知を受け取ったあの日、重たく響く上司の声と、部屋に満ちた祝福と緊張の混じる空気。
部下を持つ責任。
彼らの期待や不安を敏感に察知するようになり、会議室の空気の温度や湿度までが妙に気になるようになった。
自分が任される仕事の質も、量も、着実に増していった。
だがその裏で、私は家族、とりわけ妻に寂しい思いをさせていた。
深夜の静まり返ったリビング。
冷蔵庫の中に残された手料理の温もり。
結婚五年目を迎えたにも関わらず、夫婦で過ごす時間は、指の隙間から零れ落ちる砂のように少なかった。
誕生日だけは、そんな日常に小さな色を差したいと、お互いに特別な食事をしようと約束した。
日常の喧騒から離れ、ほんのひとときだけでも、互いの存在を確かめ合える時間を──そんな思いが胸にあった。
妻が指でなぞるスマートフォンの画面越しに、予約困難な高級レストランの名を見つけたと嬉しそうに話してくれた。
彼女の希望を叶えるため、私は会社に事前に事情を伝え、当日は朝から同僚や部下に「今日は早く帰るから」と繰り返し伝えていた。
オフィスの空気に、いつもと違う緊張が走る。
だが夕方、空気は一変した。
携帯電話が甲高い着信音を響かせる。
外出していた部下から、信じられない連絡が入ったのだ。
「取引先で大きなミスが発生し、先方の部長が激怒している」という。
普段は柔らかな物腰のあの部長が、とてもそんな姿を見せるとは想像できない。
私の手のひらにはじっとりと汗が滲み、胸の奥底で心臓が不規則に跳ねた。
工場の現場へと車を飛ばす。
窓の向こうに沈みかける夕陽、車内に充満する焦燥と緊張。
工場の金属と油の匂い、床の冷たいコンクリートの感触。
部下と合流し、共に平身低頭で謝罪する。
その最中、心の片隅には、妻との約束がしがみついて離れなかった。
その後、急いで取引先の本社へ向かう道すがら、私は妻に経緯を説明するメッセージを送った。
指先が震え、文字がうまく打てない。
返ってきたのは、「大丈夫よ、私は理解してるから」の短い言葉。
その優しさが、逆に胸を締め付けた。
申し訳なさと、どうしても拭えない自責の念が、車内の空気をさらに重苦しくした。
取引先の本社ビルに着くと、ロビーには薄暗い照明が落ちていた。
エレベーターの中で一人、深呼吸を繰り返す。
自分の心臓の音が耳の奥で鳴り響き、喉が渇いて唾を飲み込む音までがやけに大きい。
案内された第一会議室の前で、私は一度立ち止まった。
ドアの奥には、どんな怒りが渦巻いているのか。
ドアノブを掴む手が微かに震える。
深く息を吸い込み、重い扉をゆっくりと開ける。
その瞬間、私の目に飛び込んできたのは、まったく予想もしなかった光景だった。
「パン!パン!パン!」
乾いたクラッカーの音が一斉に響く。
蛍光灯の下、色とりどりの紙吹雪が宙を舞い、そこには笑顔を浮かべた部下たち、取引先の部長、そして妻の姿があった。
彼らの声が次々に重なり合い、「課長、お誕生日おめでとうございます!」という祝福が、波のように私を包み込んだ。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
状況が飲み込めず、立ち尽くす私。
そのとき、部下の一人が照れくさそうに「実は…前から皆で計画してたんです」と小声で囁いた。
取引先の部長も、普段の厳格さをかなぐり捨てたような柔らかな表情で、「今日は特別な日ですから」と微笑む。
部屋には手作りの装飾や、私の好きな料理が並び、空気には甘く華やかなケーキの香りが混じっていた。
妻がそっと私の手を握る。
その手の温もりと、柔らかな指の感触が、現実であることを静かに伝えてくる。
「あなた、お誕生日おめでとう」と、囁くような声が私の耳元に届く。
私はその場で、こらえきれず涙を流した。
喉の奥が熱くなり、胸がいっぱいになる。
部下たちの笑顔一つひとつに、これまでの苦労や葛藤、孤独や希望が映し出されているようだった。
彼らのまなざしが、私を支えてきた日々の全てを肯定してくれる気がした。
会議室は、たった一夜限りの祝祭の空間へと変貌していた。
壁際には、これまで共に乗り越えてきたプロジェクトの写真が飾られ、私の歩んできた軌跡が、まるで映画のワンシーンのように浮かび上がる。
私は心の中で、過去の自分──数字だけを追いかけ、誰かの期待に応えようと必死だった日々──に静かに語りかけた。
今、ここにいる自分は、一人ではない。
こんなにも温かい仲間と、かけがえのない家族に囲まれている。
この夜の記憶は、私の一生の宝物になった。
部下たちの笑い声、妻の微笑み、取引先の部長の意外な人間味──すべてが、私の中で鮮やかな残響となり、これからの人生を照らし続けていくのだろう。
私は静かに目を閉じ、頬を伝う涙の温度を確かめながら、感謝と幸福を噛み締めていた。
感動する話:数字を追い続けた七年、静寂と喧騒が交錯する奇跡の夜――誰も知らなかった感謝のパーティ
数字を追い続けた七年、静寂と喧騒が交錯する奇跡の夜――誰も知らなかった感謝のパーティ
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