雨の予報だった午後、曇天の窓越しにネオンが滲んでいた。
七年という歳月は、俺の心に鈍い疲労を刻みながらも、確かに何かを育てていた。
会社の白い天井、蛍光灯の下で積み上げてきた数字の山。
その一つ一つに、俺は自分の時間と、夢の残骸を押し込めてきたのだ。
昇進の辞令を受け取った日のことを今も覚えている。
手のひらの汗が、紙の端を湿らせていた。
部下の名を呼ぶたび、責任という名の重しが、背骨に静かに降り積もった。
気づけば心は、いつも会社に置き去りのままだった。
家に帰れば、妻が食卓に静かに座っていた。
頬をなぞる髪が、少し前より長くなった気がした。
彼女の目の奥に、言葉にできない空白が揺れていることに、俺は気づかないふりをしていた。
「五年目、か」
窓の外の街灯が、彼女の横顔を淡く照らしていた。
「誕生日には、特別な店で食事しよう」
互いにそう約束しながら、その夜の会話は、どこか遠い場所に滲んで消えていった。
季節は初夏。
雨粒がアスファルトに小さな王冠をいくつも描いていた。
妻が密かに憧れていた高級レストラン、予約は彼女が奇跡的に取ってくれた。
彼女の瞳が、その知らせを伝えるとき、子供のように輝いていた。
「ありがとう」
その一言を言いそびれたまま、俺は翌朝も会社に向かった。
昼下がり、苦いコーヒーを片手に書類を眺める。
数字の羅列は波のようだ。
俺は今日だけは、と同僚や部下に早退を告げる。
いつもより少し軽い足取りで、ただ、心のどこかで不安の影が忍び寄っていた。
夕暮れ、携帯が震えた。
「すみません…」
部下の声は雨に濡れた子犬のように震えていた。
取引先で、許されないミス――言葉は刃物のように胸を刺した。
「今から工場へ謝りに行きます」
選択肢はなかった。
工場の冷たい空気。
油の匂いと機械の唸りが、現実の重みを突きつけてくる。
取引先の部長は、普段の温厚さが嘘のように、声を荒げた。
俺はただ頭を下げ、何度も言い訳を飲み込んだ。
「申し訳ありません」
声が震えた。
手のひらは汗で湿っていた。
その後、取引先本社へ。
タクシーの窓から、濡れた街路樹が後ろに流れていく。
「ごめん、急なトラブルで…」
妻に電話をかけると、沈黙のあと、
「大丈夫よ。
私は理解してるから」
彼女の声は、曇り空のすき間から差す光のようだった。
胸の奥が、じんわりと痛んだ。
夜のビル。
第一会議室の前で、俺は深く息を吐いた。
恐怖と緊張が、心臓を強く叩いている。
ドアノブにかけた手が、小刻みに震えた。
何度も胸の内で謝罪の言葉を繰り返し、意を決してドアを開ける。
――その瞬間。
「パン! パン! パン!」
クラッカーの破裂音が、静寂を切り裂いた。
「課長、お誕生日おめでとうございます!」
会議室は笑顔の部下たちで溢れていた。
壁には手作りの飾り付け、テーブルの上にはケーキ。
取引先の部長まで、柔らかい笑みでグラスを掲げている。
全てが仕組まれていた。
部下が発案し、取引先と共に計画したサプライズだったのだ。
「あなた、お誕生日おめでとう」
妻がそっと俺の手を握る。
手の温もりが、心の隙間を静かに満たしていく。
会議室は、一夜限りの祝祭の場に変わった。
涙が、知らずに頬を伝い落ちた。
嬉しさと、胸の奥に溜まっていた罪悪感や、安堵や、愛しさのすべてが、波のように心を揺さぶった。
部下たちの顔を一人ひとり見つめる。
皆、それぞれのやり方で俺のために動いてくれた。
こんなにも素晴らしい仲間と、そして誰よりも優しい妻と、同じ時間を重ねてきたことへの感謝が、言葉にならなかった。
その夜の光景は、今も心の奥で静かに瞬いている。
数字ばかり追いかけてきた自分が、こんなにも温かい世界に包まれていたこと――
それは、これから先も消えることのない、一生の宝物となった。
感動する話:数字の彼方、祝福の光――ある夜の微かな奇跡
数字の彼方、祝福の光――ある夜の微かな奇跡
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