朝靄が街を薄絹のように包み込む。
六月の朝は、まだどこか肌寒さを残していた。
私はコートの襟を立てて、人気のない広場の片隅にある古びたベンチへと歩いた。
今日は、いつもより十分も早く。
彼女を待たせてばかりの自分に、せめてもの償いのつもりだった。
ベンチの塗装は所々剥げ、雨上がりの湿気が木肌に染み込んでいる。
冷たい感触が、現実の重みを静かに伝えてきた。
私はスマートフォンを取り出し、時折、遠くを歩く人影と、灰色の雲が流れる空を眺めながら、彼女の姿を探した。
約束の時刻が過ぎても、彼女は現れなかった。
広場に響くのは、遠くで鳴る電車の警笛と、小鳥のさえずりだけ。
時間がゆっくりと、しかし確実に重くなっていく。
さらに十分が過ぎたころ、私は胸の奥に、かすかな不安が芽吹くのを感じた。
何かが、どこかで、ずれてしまったのだろうか。
指先が震えるのを抑えながら、彼女に連絡を取ろうとスマートフォンを手にした、その瞬間——
「今、どこにいるの?」
彼女からのメッセージ。
けれど、どこか苛立ちを帯びている。
私はすぐに「いつものベンチにいるよ」と返した。
だが、すぐに返ってきた言葉は、私の心をさらにざわつかせた。
「何を言ってるの?私もそこにいるのに」
私は思わず周囲を見渡した。
広場は決して広くない。
ベンチは、たったひとつしかない。
いつも二人で座る、あの場所——間違えるはずがなかった。
「私もちゃんと待ってるよ」
そう伝えても、彼女は納得しない。
沈黙が、二人の間に重く降り積もった。
やがて、彼女がぽつりと尋ねた。
「今、自転車に乗った人が通ったけど、服装とか、性別とか、見えた?」
私は記憶を辿る。
たしかに、赤いリュックを背負った青年がベンチの前を通り過ぎた。
私は、そのままの光景を伝えた。
しかし、彼女の答えは違っていた。
互いの世界が、微かに、しかし確実に食い違っている——そんな予感が、心に根を張る。
私たちは、それぞれの現在地を写真に撮って送り合うことにした。
送られてきた彼女の写メールには、見慣れたベンチと、曇り空、街灯の影が映っていた。
それは、私の目の前の景色と寸分違わぬ構図だった。
まるで、鏡に映したように。
私は混乱し、息が詰まりそうになった。
二人の間に横たわるのは、ただの距離ではなかった。
どちらが、どこか違う世界に迷い込んでしまったのだろう。
理由も、原因もわからぬまま、私はただ恐ろしくなり、広場を離れて家へと帰った。
その夜、彼女から電話があった。
二人で朝まで話し込んだ。
言葉を重ねても、謎は深まるばかりだった。
けれど、私たちは諦めきれなかった。
翌日、もう一度あの場所に行こうと約束した。
再び訪れた広場には、昨日と同じ冷たい風が吹いていた。
けれど、私は確かに彼女の姿を見つけた。
彼女も、私を見つけて、駆け寄ってきた。
涙が、頬を伝った。
互いの存在を確かめ合うために、何度も名前を呼び合った。
あの時、本当に異なる世界にいたのは、私だったのか、それとも彼女だったのか。
答えは、今もわからない。
けれど、あのベンチで再び出会えた奇跡だけが、私たちの心に、静かな余韻として残り続けている。
不思議な話:ふたつの世界、ひとつの約束——交差しない朝のベンチで
ふたつの世界、ひとつの約束——交差しない朝のベンチで
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